『在家佛教』バックナンバー 

平成16年1月号(620号)から
平成16年1月号

目  次

夢と三昧〔上〕 坂東性純 (坂東報恩寺住職)
日本語で「夢」という言葉が宗教的に使われた場合には「最も頼りになる、真実なるものを宿した聖なる領域」を指していたようです。

信をうれば心やわらぐ〔下〕 瓜生津隆真 (京都女子大学名誉教授)
人は賢くなりたいものです。が、我が力によって人生を歩むものだという思い上がりを捨てて愚者に還る、無我とはそういうことです。

維摩居士の在家道〈1〉 瀧藤尊教 (元四天王寺管長)
仏教は山中の行ないすました行者だけのものであってはならない。在家者の生活の中にこそ真実の仏道があるのだと聖徳太子は語る。

<表紙>
東大寺大仏殿 編集部・撮影
<グラビア>
ブッダの道(49) 韓国扶餘の定林寺址五層石塔
<巻頭>
「宗教は文化ではない」ということ 西村惠信 (花園大学学長)

<行雲流水>
  未生怨コンプレックスの時代 松田正典 (広島大学名誉教授)
  「教育改革」への不安 西村心華 (NHK学園元講師)
  失うことと神通 岡田真美子 (姫路工業大学教授)
  人間万事塞翁が馬 上田 悟 (農学博士)

一寸先が分からないから楽しい 山田法胤 (薬師寺副住職)
久遠のまこと 西川玄苔 (宋吉寺東堂)

生きるための宗教 高畑俊孝 (丸山寺住職)
念仏の境地を深めたい 村木 茂 (念仏者)
随喜 信本流二 (西方寺前住職)

<如是我聞>
 霊とは何だろうか
奈良康明 (駒澤大学総長)
<同心円>
 赤い人の手紙
金光寿郎 (元NHKチーフディレクター)
<心月輪>
 信と謗
石上善應 (淑徳短期大学学長)

<叢林>
 みるということ
服部育郎 (東方研究会研究員)
<無尽灯>
 病める人の自覚
亀井勝一郎 (故・文芸評論家)

加藤辨三郎・言葉抄 36 編集部・抄録
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<編集後記>から

 1月号の表紙は、奈良東大寺の大仏殿。
 これまでひさしくインド文化圏を中心に写真を撮ってきたが、レンズを通して見ていたものが、視覚的な表層であったことを思い知らされている。日本の風景に回帰して、厚い靴を脱いで素足で土を踏む思いがあった。

 異質な風土や民族性、伝統文化や生活習慣の違いに眼を奪われて、そこに現れているものの、根にまでとどく眼を持たなかった。根の先にある土壌や、もっとその奥にある、底なしの世界にまで潜ってゆく地下水のような、視覚とも触覚ともつかない眼があることを感じている。

 インドでの最初のとまどいは人々の強い「輪廻」の意識であった。教育の有無に関わらず、みな一様に生まれ変わることを語る。

 もうすでに数十年も前のことになる。クシナガラに近い村に入ったとき、夕べの道を家に帰ってゆく山羊に出合った。そこへ鴉が一羽飛んできて、山羊の背にとまる。山羊は驚くでもなく、無心に歩みつづけ、鴉もまた、山羊の背で羽をおさめて、山羊に乗ったまま村に入って行った。子供のころ山羊を飼って、その気むずかしさを知っているものには信じがたい光景であった。

 その無心で、差別の意識がない二つのいのちのすがたを想い出して、この国の過半数の人がベジタリアンであり、「不殺生(アヒンサー)」がからだにしみこんでいることが、その「輪廻」感に重なってみえてきた。
 この国の人々の抱く「輪廻」感は、自分自身の不滅の自我が未来に向かって限りなく生まれかわってゆくというよりも、いま現にある自分の存在が数々の輪廻を経てきた体感がそこにはあって、その根源にある未分の、一如のいのちにふれる深い三昧体験を通してこの世の現実が見えているかのように思われる。しかも、それが気の遠くなるほどの歳月にはぐくまれてきて、そのことが意識にものぼらないほどに、からだの芯にしみこんでいる。

 今月号の坂東性純先生の「夢と三昧」には「一切を放下して心が三昧に住しさえすれば、そこにひらめき出る智慧が人を救う」とある。現実の眼にはみえない無意識の領域の深さに思いがひろがってゆく。

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