| 平成15年12月号(619号)から | |
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| 目 次 | |
| 信をうれば心やわらぐ〔上〕 | 瓜生津隆真 (京都女子大学名誉教授) |
| 「真の宗教は人間の無力さ愚かさを気づかせて下さる教えです。自分の愚かさが分からずにどうして人間の本当の道が歩めるでしょう。」 | |
| 宗教と信仰 | 田上太秀 (駒澤大学教授) |
| 「釈尊がみずからの体験を通した教えを説き示されたからこそ、究極の覚りとは何か、真理とは何かを、私たちは知ることができたのです。」 | |
| <表紙> | |
| アジャンター第26祠堂窟 | 編集部・撮影 |
| <グラビア> | |
| ブッダの道(48) 不断念仏のふるさと | |
| <巻頭> | |
| 信念を持って生きる | 渡邊寶陽 (元立正大学学長) |
| <行雲流水> | |
| 少欲知足 | 水野弥穂子 (元東京女子大学教授) |
| 往古の関東を思う | 村上大朗 (浄土真宗光明寺住職) |
| シチリア島の宿 | 足立 朗 (河口湖美術館名誉館長) |
| 「教育基本法」改正と宗教教育 | 竹内 明 (日本仏教教育学会会長) |
| いのちの原点を見詰める | 小林隆彰 (日・中・韓国際仏教交流協議会理事長) |
| 「見る」と「聞く」 | 常磐井鸞猷 (真宗高田派専修寺法主) |
| アメリカで「老い」を考える | のりもと・けいぞう (北米毎日新聞社顧問) |
| 一句聞法 | 佐々木邦世 (中尊寺執事長) |
| 人の輪 | 吉田國廣 (元多摩鋼管工業顧問) |
| <心月輪> 上品上生とは |
石上善應 (淑徳短期大学学長) |
| <同心円> 別れの時の言葉 |
金光寿郎 (元NHKチーフディレクター) |
| <如是我聞> 自然を愛するということ |
奈良康明 (駒澤大学総長) |
| <拈華微笑> 化身ということ |
坂東性純 (坂東報恩寺住職) |
| <いのちのことば> 「言葉」に出会う |
田村圓澄 (九州大学名誉教授) |
| <叢林> 権利万能の時代にあえて捨身を思う |
金岡秀郎 (亜細亜大学講師) |
| <無尽灯> 世界の中の仏教の地位 |
鈴木大拙 (故・元学士院会員) |
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| <編集後記>から 木犀の香りが終って、垣根の茶の花が散った。冬至に向かって迅さの増す日々である。 本号とともに創立五十周年記念の講演集「いのちゆたかに」が出版される。「二十一世紀の仏教の役割」を共通のテーマに掲げた記念シンポジウムの記録は、一と月後の出版になる。心の内面に向き合った第一集と、社会に向かっての実践が語られた第二集。ともに五十年の足跡を省みた一年であった。 先月号から本誌に「無尽灯」の欄が加わった。五十年の歴史を辿り、明日への指針を確認したい、「温故知新」の願いである。 先月号の「無尽灯」は、加藤辨三郎初代理事長の「在家者の宗教生活」。「私はかつて職場即道場、生活即修行、と考えたこともあります。しかし今ではなにもそうリキむこともいらないと思います。ただひとつ、仏に帰依さえすれば在家生活のあり方は、自然に教えられてきます。仏に帰依、具体的には念仏。只一筋にそれだけでいいのであります」。昭和二十九年、先生五十五歳の時の思いである。 今月の「無尽灯」は鈴木大拙先生の昭和二十九年のご講演「世界の中の仏教の地位」。欧米から帰国して間もない八十余歳の大拙先生は、妙好人(みょうこうにん)を生み出した日本的霊性(れいせい)の風土に着目された。「りくつも何もいわずに、すなおに、ほんとうの仏教の意味のわかる人々の出てくる土壌は何か、これを十分に自覚していかなくてはならないのじゃないか。無自覚が自覚せられてこないと、ほんとうの力が出ない。その自覚を取戻すというところに、在家仏教の運動の意味があるのではないか」。在家佛教協会に寄せられた期待である。 今月号に瓜生津隆真先生が、蓮如上人のおことばを紹介されて、「信をうれば心やわらぐ」ことが真実の宗教の証しであると、「信をうる」ことと、その対極をなす「我(が)になる」ことの意味を明らかにされて、人間の無力さ、愚かさを気づかせて下さる教えが真の宗教だと語っておられる。「仏法には無我と仰せられ候、ゆめゆめ我(が)といふことはあるまじく候」と、信仰の要諦を日常語で説かれた蓮如上人のおことばに、幾世代もの人の心に受け継がれ日本の霊性の大地に浸透しつづけた静邃(せいすい)な地下水を思い知らされる。 |
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