行雲流水
「随順」の慈悲
大須賀 発蔵 ((財)茨城県カウンセリングセンター理事長)
華厳経に魅かれて
私は地方の零細企業の後継者として生まれ、今年八十歳になる人生の曲折を歩んでまいりました。その間、青年期の苦悩や経営上の困難を縁として、仏教やカウンセリングに出会い、現在は両者の心が深いところでは共通していることに深く感動を覚えております。
そうしたことから、深遠な宇宙観・生命観を説く華厳経にも関心を寄せていますが、非力な私には難解です。しかしその中の「一句一行」からはっと気付き、新鮮ないのちへの眼差しを与えていただくことも多々あります。
華厳経には「随順」ということばが、ところどころに出てまいります。一般的には経典の中の「随順」ということは、おそらく悩み苦しむ私たち衆生が、救いを求めて仏さまのあとを一生懸命ついて行く、というように受け取られると思います。もちろんその了解は基本的に大切ですが、華厳経の中には、私たち衆生を導くため仏・菩薩・そして善知識が衆生に「随順」して下さることも述べられています。いうならば、仏さまや菩薩さまの、私たち迷える者を救おうとなさる積極的な慈悲のはたらきが「随順」という姿になるのでしょう。
ですから、仏さまは決して私たちの前へ出ないで、私たち衆生が煩悩具足の”体験過程”を充分に味わい、自ら洞察を深めるまで待ちながら、寄り添ってくれているわけです。そのような仏さまの深い慈悲心に気づくこともなく、わがいのちを先立てて得意然としている自分を思うと、恥じ入ることばかりです。
(中略)
カウンセリングにかかわる私は、学校に行けないお子さんのお母さん方にお会いすることも多いのですが、そういう時を思い返してみましても、最初はお子さんが学校に行かないと言う不安から、親が先に立って道をつけてしまう「先行」というか、「随順」ではない関わりが多いのです。それは無理もない自然な行動ですが、その心にもカウンセラーが耳を傾け「随順」していきますと、やがて親も、ああそうではないんだな、いかようであれ、子どもの体験は、子ども自身の足でまず体験してもらって、親のほうは一ミリでも二ミリでも下がったところに寄り添って、その成長をあたたかく見まもりながら理解していくことで、子どもの心の中に生きる力がよみがえってくるんだなぁ、ということを、お父さんやお母さんもわかってくるのです。
私にも、こんな体験がありました。ある年の冬、私が比叡山に行ったときの事です。ちょうど雪が降り積もった朝のことで、まだ誰も雪の上を歩いていない時間に、根本中堂にお参りしたんです。そのとき誰の足跡もついていないまっさらな雪の上を、自分で足を踏みしめながら道をさぐって歩いたとき、自分でやったという体験の喜びを強く味わったことがありました。
思えば、お父さんやお母さんも、お子さんが新しい雪を踏む喜びを味わえるように、先へ出ないで寄り添ってくださるとき、お子さんにも自分の力で立ち上がる力が生まれてくるのでしょうね。
そして、巡礼の歩みもまた、仏さまに「随順」していただく体験です。
お遍路の笠には「同行二人」と書いてあります。巡礼のときには杖をついて歩くわけですけれど、その杖が四国ならば弘法大師のお姿であり、観音霊場であれば観音さまのお姿なんですね。その杖は一緒になって歩いてくれて、いつも脇に添って、決して私たちの思いを越えてはうごかず、こちらの思いに随順して下さるのです。
したがって私たちは、お大師さんや観音さまが私たちに随順してくださる巡礼の歩みをとおして、心のエネルギーを取り戻す体験をするんですね。巡礼の旅はまさに「自然者(じねんじゃ)の法」だったのです。
私たちはそういうことに気づいて、−杖をつく、つかないは自由として−とにかくみんなで観音霊場を廻ってみようじゃないか、そして同じ方向を向いて歩き、お互いがお互いに随順し合いながら、心を語り合ってみようと、秩父三十四観音の霊場を二泊三日の”巡礼エンカウンター・グループ”として廻ることをやっているのです。それも今年の秋には二十五年目になります。一回も欠けることなく、ありがたいことです。
(後略)
|