行雲流水
人生、こんなはずではなかった?
田代 俊孝 (同朋大学大学院教授・名古屋大学医学部倫理委員)
ときおり老人ホームへ行くことがある。一歩足を踏み入れると特有の雰囲気がある。そこでは、ほとんどの人が、異口同音に「こんなはずではなかった」といい、「ここにいるのは仮の私で、家族に囲まれて、家の中心にいるのが本当の私です」などといわれる。ここにいる自分が受け入れられないのである。中には「亡くなる順番を待つ日々です」とおっしゃる人もいる。空しく過ぎる日々である。
ところが、その方たちがおられる施設はとってもすばらしい施設である。もちろん、冷暖房完備、バリアフリー、三食昼寝付き、その上、お誕生会やカラオケ大会までもある。
私の住んでいる寒くて古ぼけた田舎の寺の庫裡に比べれば、はるかに快適な生活空間である。そして、そこにはたくさんの素晴らしいスタッフがいる。なのに・・・・・・・・?
行政は毎年、莫大な金額の福祉予算を投入している。それなのに、どうして入所しておられる方が、「こんなはずではなかった」と言って未練と不満タラタラで死んでいかねばならないのか。人生の充足感はどこにあるのか。日本の福祉政策はどこかおかしい。
ハコとモノはりっぱではあるが、心がぬけている。宗教(ご利益信仰ではなく、普遍の救済原理のあるもの)が抜けているのである。
僧侶でもある私が、入所者の話し相手になるボランティアの相談員を派遣しましょうか、と老人ホームへ申し込んでも、たいていは断わられる。施設の管理者からすれば、当然かもしれない。
しかし、きょうも、大勢の人が、素晴らしい施設の建物の中で「こんなはずではなかった」といって、亡くなる順番を待っている。
宗教はだれのためにあるのか。教団やお寺のためにあるのではない。悩む人のためにあるのである。では、どこで「これでよかった」と人生の充足感と満足をえるのか。
頭でっかちになった現代人は、いのちをモノとしてみる。モノであるいのちは、計られる。長いいのち、短いいのち、そして、長いいのちはよくて、短いいのちはだめだと価値づけをする。役に立ついのちはよくて役に立たないいのちはだめだ。上手な死に方がよくて、下手な死に方はだめだ・・・・・・。いのちを所有化し、思い通りにそのものさしを延ばしていこうとする。
しかし、いのちは思いどおりになるだろうか。かりに「長生きしますように」と祈って、長生きしても、それで満足できるだろうか。どこまで祈っても満足はない。
「こんなはずではなかった」といわねばならない。なぜなら、欲は無限であり、生死は思いどおりにならないからである。
かつて、人生五十年であった。今、人生八十年である。その延びた分だけあなたは、満足しましたか。これから百歳まで生きたとして、あなたは満足しますか。いくら欲望をのばしても三界を流転していることに変わりはないではないか。
いのちは思いどおりにならない。不如意である。あなたは、自分の力で思いどおりに生まれてきましたか。自分の力で思いどおりに死んでゆけますか。生まれてからきょうまで思いどおりに生きてこれましたか。
私は、重なる御縁によって思いがけず生まれてきました。また、生まれてから今日まで思いがけないことの連続でした。あなたとこうして誌上で出遭っていることも思いがけないことである。そして、また、私は思いもよらず死んでゆく。
気付いてみれば、思いを超えた大きな大きな働きの中に生かされていたのである。あの孫悟空がきん斗雲にのって三界をかけ回っても最後は仏様の大きな手の中だったというのと同じである。他力に生かされていたのである。その中で右往左往していたのである。
不如意なるものを如意と誤って思うところに苦悩を生ずる。思いどおりにならないものは、思いどおりにならなくてもいいではないか。長くてもよし、短くてもよし、とそのとらわれを離れたとき、そのままでよしと落ち着けるのである。
あるがままでいい。癌は癌のままでいいではないか。奇跡で癌が治ることが救いではない。癌を喜んで引き受けていける身にこちらが転ぜられることが本当の救いなのである。
自己を超えたもの、自然に身を委ねたとき本当に落ち着けるのである。一切が、仏の大きなみ手の中の出来事であった。そのことに気付いたとき、絶対満足があるのである。それを中国北魏の曇鸞は、「自体に満足す」(『浄土論註』)といい、親鸞は「その身に満足す」(『尊号真像銘文』)といい、そして「本願力にあいぬれば空しく過ぐる人ぞなき」(『和讃』)といっている。
さあ、あなたは人生の最後に、「こんなはずではなかった」といって終わるのか、「これでよかった」といって終わるのか。あなたの宿題である。
(全文)
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