月刊誌「在家佛教」のご紹介
 バックナンバー 

平成15年6月号から
平成15年6月号
目 次
ページ
表紙 韓国慶尚北道の仏国寺 編集部・撮影
ブッタの道(42) [グラビア]石経山雷音洞4
奥之院御本尊御開帳森 清範5

行雲流水
  共に生きる小堀 光詮6
  「長春」にて藤島 建樹8
  光りに包まれて江原 通子11
  人生、こんなはずではなかった?田代 俊孝13

恕すことから生れる平和日野原 重明16
大拙に見る禅と浄土<上>竹村 牧男35
聞法ということ <下>田丸 徳善78

悉有仏性永尾 雄二郎50
人間の尊厳性をめぐって多川 俊映58
クローン人間柳澤 桂子67

心月輪
 月あり花あり楼台あり
石上 善應48
拈華微笑
 二足の草鞋
坂東 性純56
同心円
 仏は自分であるが、自分は仏ではない
金光 寿郎72
如是我聞
 戻れなくなった
奈良 康明76

いのちの願う世界金石 晃陽74
仏教との出会い中村 棟俊90

連載
  老いに学ぶ 14 〈最終回〉
   末期の眼
小島 寅雄64

加藤辨三郎・言葉抄 32編集部・抄録93

 今月の表紙89
 在家佛教通信 古寺を訪ねて法話を聞く会92
 編集後記97
 在家佛教講演会案内98
カット  杉本 順
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平成15年6月号より一部を抜粋します。
行雲流水
人生、こんなはずではなかった?

田代 俊孝
(同朋大学大学院教授・名古屋大学医学部倫理委員)


 ときおり老人ホームへ行くことがある。一歩足を踏み入れると特有の雰囲気がある。そこでは、ほとんどの人が、異口同音に「こんなはずではなかった」といい、「ここにいるのは仮の私で、家族に囲まれて、家の中心にいるのが本当の私です」などといわれる。ここにいる自分が受け入れられないのである。中には「亡くなる順番を待つ日々です」とおっしゃる人もいる。空しく過ぎる日々である。
 ところが、その方たちがおられる施設はとってもすばらしい施設である。もちろん、冷暖房完備、バリアフリー、三食昼寝付き、その上、お誕生会やカラオケ大会までもある。
 私の住んでいる寒くて古ぼけた田舎の寺の庫裡に比べれば、はるかに快適な生活空間である。そして、そこにはたくさんの素晴らしいスタッフがいる。なのに・・・・・・・・?
 行政は毎年、莫大な金額の福祉予算を投入している。それなのに、どうして入所しておられる方が、「こんなはずではなかった」と言って未練と不満タラタラで死んでいかねばならないのか。人生の充足感はどこにあるのか。日本の福祉政策はどこかおかしい。
 ハコとモノはりっぱではあるが、心がぬけている。宗教(ご利益信仰ではなく、普遍の救済原理のあるもの)が抜けているのである。
 僧侶でもある私が、入所者の話し相手になるボランティアの相談員を派遣しましょうか、と老人ホームへ申し込んでも、たいていは断わられる。施設の管理者からすれば、当然かもしれない。
 しかし、きょうも、大勢の人が、素晴らしい施設の建物の中で「こんなはずではなかった」といって、亡くなる順番を待っている。
 宗教はだれのためにあるのか。教団やお寺のためにあるのではない。悩む人のためにあるのである。では、どこで「これでよかった」と人生の充足感と満足をえるのか。
 頭でっかちになった現代人は、いのちをモノとしてみる。モノであるいのちは、計られる。長いいのち、短いいのち、そして、長いいのちはよくて、短いいのちはだめだと価値づけをする。役に立ついのちはよくて役に立たないいのちはだめだ。上手な死に方がよくて、下手な死に方はだめだ・・・・・・。いのちを所有化し、思い通りにそのものさしを延ばしていこうとする。
 しかし、いのちは思いどおりになるだろうか。かりに「長生きしますように」と祈って、長生きしても、それで満足できるだろうか。どこまで祈っても満足はない。
 「こんなはずではなかった」といわねばならない。なぜなら、欲は無限であり、生死は思いどおりにならないからである。
 かつて、人生五十年であった。今、人生八十年である。その延びた分だけあなたは、満足しましたか。これから百歳まで生きたとして、あなたは満足しますか。いくら欲望をのばしても三界を流転していることに変わりはないではないか。
 いのちは思いどおりにならない。不如意である。あなたは、自分の力で思いどおりに生まれてきましたか。自分の力で思いどおりに死んでゆけますか。生まれてからきょうまで思いどおりに生きてこれましたか。
 私は、重なる御縁によって思いがけず生まれてきました。また、生まれてから今日まで思いがけないことの連続でした。あなたとこうして誌上で出遭っていることも思いがけないことである。そして、また、私は思いもよらず死んでゆく。
 気付いてみれば、思いを超えた大きな大きな働きの中に生かされていたのである。あの孫悟空がきん斗雲にのって三界をかけ回っても最後は仏様の大きな手の中だったというのと同じである。他力に生かされていたのである。その中で右往左往していたのである。
 不如意なるものを如意と誤って思うところに苦悩を生ずる。思いどおりにならないものは、思いどおりにならなくてもいいではないか。長くてもよし、短くてもよし、とそのとらわれを離れたとき、そのままでよしと落ち着けるのである。
 あるがままでいい。癌は癌のままでいいではないか。奇跡で癌が治ることが救いではない。癌を喜んで引き受けていける身にこちらが転ぜられることが本当の救いなのである。
 自己を超えたもの、自然に身を委ねたとき本当に落ち着けるのである。一切が、仏の大きなみ手の中の出来事であった。そのことに気付いたとき、絶対満足があるのである。それを中国北魏の曇鸞は、「自体に満足す」(『浄土論註』)といい、親鸞は「その身に満足す」(『尊号真像銘文』)といい、そして「本願力にあいぬれば空しく過ぐる人ぞなき」(『和讃』)といっている。
 さあ、あなたは人生の最後に、「こんなはずではなかった」といって終わるのか、「これでよかった」といって終わるのか。あなたの宿題である。

(全文)


恕すことから生れる平和

日野原 重明
(聖路加国際病院理事長)

(前略)
 前置きが長くなりましたが、私たちにはいま、戦争がないことが切に望まれますが、心の平和が大切です。心の中に平和を持って、それが行動に現れるということ。この平和には、何が一番大切かというと、愛です。愛とは何であるか。西洋哲学では、愛には人間的な愛エロスと、神さまの愛アガペーとがあると考えます。仏教では慈悲といい、この慈悲に近い言葉に、英語のチャリティがあります。これはフランス語から来ており、フランス語ではシャリテという女性名詞です。ですから西洋では慈悲は女性的、母性的なものです。子どもを愛する母性愛も含めてです。日本語には名詞に男性、女性は無いのですが、ドイツ語やフランス語にはあります。フランス語で希望という言葉は女性名詞で、エスペランスです。フランスの詩人ペギーが言っているのですが、エスペランスという女性名詞は、女性が女の子を孕んだことを医師に告げられた時に体に感じる感覚、それが希望だというのです。その時、母親は子どもが健やかに成長してほしいと思う、それが最高の望みでしょう。健やかという言葉に祈りを込めながら大切に育てます、夫婦ゲンカも余りしないで。子どもは生まれた時にはもう耳が聞こえているのです。目は十日間ほど見えませんが、声を出したり手をたたいたりすると、ハッと驚きます。胎児の時にもお母さんの心臓の音が聞こえていたのです。ですから生まれた子どもがぐずついたときに、お母さんの心臓の音を録音して聞かせると落ち着くという実験があります。お母さんが胸に抱きますと、お母さんの胸の心音が直に聞こえるでしょう。聴診器よりも私たちは胸に耳を当てた方が心音など聞き易いのです。直に聴くのが一番良く聴こえます。
 とにかくお母さんが妊娠したときの感覚が希望だという、ここにおられる男性の方も想像してみてください。希望というのは外に向くものではなくて心の内に満ちるものです。外のものは欲望です。早く高い地位をえたいとか、良いところへお嫁に行きたいとか、立派な家を建てたいとか、みな外への願望です。外への願望は、戦争とか、地震とか、自分が病気をするとかによって大きな影響を受けるもので、私たちのコントロールを越えています。しかし、それとは異なって、私たちの希望は、心の中に小さいことでもいいから祈るような気持ちで作りあげていくものです。
 メーテルリンク作の「青い鳥」の中でチルチル、ミチルは幸福の青い鳥を探しに行きますが、どこにもいない。ところが家に帰ってきたら、自分の家の中に青い鳥がいたのです。幸福は心の中にあるのだという発見です。小さくてもいい、毎日、毎日、私たちは心の中に自分で希望を作り出し、出来れば、悲しんでいる友のために、小さな希望をその人に与えるような役割をする、そういう外に対する行為によって、私たちの内なる希望が、だんだん成長していく。
 平和とか幸福とかいうことばは、そういうすばらし響きを持っております。慈悲、チャリティは女性的な響きを持った言葉ということを私は皆さんにお伝えしたいわけであります。
(後略)

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