月刊誌「在家佛教」のご紹介
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平成15年5月号から
平成15年5月号
目 次
ページ
表紙 韓国慶尚南道の通度寺仏舎利塔 編集部・撮影
ブッタの道(41) [グラビア]梵本を納めた慈恩寺の大雁塔4
仏教用語を使わない板橋 興宗5

行雲流水
  「意味」の世界中西 智海6
  印哲の森の励みと安らぎ山口 惠照8
  「共命鳥」研究余滴畝部 俊英11
  マイ・ラストシーン小原 孝弼14
  慰霊と追善苅谷 定彦17

菩薩の原像木村 清孝20
聞法ということ<上>田丸 徳善46
佛教の成立 3<終>西村 惠信82

そろそろと思いながら高 史 明38
阿弥陀のいのち野田 風雪58

如是我聞
 信仰の道・禁煙の道
奈良 康明44
同心円
 煩悩に眼さえられて
金光 寿郎56
拈華微笑
 イスラムと私
坂東 性純64
心月輪
 一隅を照らす
石上 善應72

史跡漫遊の旅加藤 俊二78

連載
  會津八一 人生と芸術 完
   終焉
原田 清66
  老いに学ぶ 13
   古い木製の腰掛
小島 寅雄74

加藤辨三郎・言葉抄 31編集部・抄録92

 今月の表紙77
 在家佛教通信 50周年記念行事90
 編集後記97
 在家佛教講演会案内98
カット  杉本 順
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平成15年5月号より一部を抜粋します。
いま、想うこと
仏教用語を使わない

板橋 興宗
(御誕生寺住職・前 曹洞宗管長)


 お釈迦さまは「仏教」という言葉は使わなかった。ご自分の体験や考えを人にわかるように、ナマの言葉で語りかけられた。
 後世のものが、その教えを仏教といい、さまざまな仏教用語を使って理解したり、人に伝えようとした。専門用語を使うと、人々の理解を得るのに便利である。
 同じ用語を使うことによって、共通の理解を得られたと思い込む。しかし、その受けとめ方は人によって微妙な違いがあるのは、むしろ当然である。それで、自分の問題を自分の言葉で考えたり、尋ねたり掘り下げることが大切ではなかろうか。
 「自分は、どう生きたらよいのか」−生き方を問いながらも、すでに息づいている自分がいるではないか。「自分とは何か」−いま花が見えている。叱られてシャクにさわっている。この現実の実感こそ、自分である。「では、なぜ悩み多い自分なのか」−それは考えても仕方がないことをグチグチ考えるからである。「考えても仕方がないとはどういうことか」−いま空腹を感じている。その空腹感を頭の中で問題にする。空腹の実感とは別に、頭で思い悩む。一種のクセである。「それでは、どうすればよいのか」−よけいな頭を使わず、頭の中を風通しよくする。そのためには、背骨をピンと伸ばし、静かに腹式呼吸をしているのがよい。これが坐禅といわれる。
 また、お念仏もよい。ナンマンダー、ナンマンダーと理屈なしに、ただ唱えているのがよい。そうすると、頭がスキッとして余計なことを考えなくなる。
 専門用語を使い、仏教を学ぶことにより、お釈迦さまと同じ寸法の着物を着、同じ履物を履くことが修行のように錯覚してしまう。仏教の型に自分をはめ込むことではない。型にはまったようでも、伸び伸びとあくびをしたり笑ったりしていることが仏教である。
 だが、気まま放題とは違う。ここが微妙なところである。

(全文)

如是我聞
信仰の道・禁煙の道

奈良 康明
(駒澤大学総長)

 もう何十年も煙草を吸っている友人が、やはり禁煙したいと言い出した。当然のことながら、なかなか成功しない。やめては戻り、戻ってはやめて、よく勉強する者を勉強家というから、オレのようにしょっちゅう禁煙している者は「禁煙家だ」などと自嘲している。何かいい方法はないか、というから、禁煙は煙草を吸わなければ成就すると言った。彼は怒ったが、私は言った。お釈迦さんは、怨みは怨まないことによって息む、「ケチ」は与えることによって、また、怒りは怒らないことによって乗り越えよ、などと説かれているから、それなら、禁煙は煙草を吸わなければ成就する、と言っても同じことじゃないか。
 そんな会話の中から、私は曽て自分が禁煙した時に冒頭の道元禅師の言葉に出会ったことを思い出した。
 私は五十歳の時の正月に禁煙した。一日五十本吸うヘビースモーカーだった。お定まりの、禁煙したくてしたくて、いろいろやってみたがうまくいかない。それが成功した一つの理由はオシャブリだった。プラスチックの小さなパイプに紙を詰めて、吸いたくなるとそれをポケットから出しては口にくわえていた。これが意外に有用だった思い出がある。苦労しながら、禁煙の道を歩き出したのだが、後ろを振り返って、松がとれたら改めて禁煙しようと考えたり、何でオレは禁煙しなくてはならないのか、と問うてみたり、ニコチン中毒で胸がやけるから部屋中を歩き回ってみたり、いうなれば、ヨタヨタしながら禁煙の道を歩いていた。しかし、次第に禁煙の道を歩く足腰がしっかりしてくる。ニコチンそのものは一週間ほどでぬける。後は習慣との戦いであって、ついポケットに手がはいる。こうしたときに冒頭の道元禅師の言葉に出会った。
 発心してから修行し、やがて悟りが開かれ、最後に涅槃に入る、とは仏道を歩く際の初歩から窮極までの段階をいうものであろう。時間軸に沿って展開される事柄のはずだが、禅師はこの四者が同時的だという。もしそうならこんなに便利な教えはない。スペイン語を習おうと発心したら、とたんに自由にしゃべれるようになっていた、と言わんばかりで、現実にはあり得ない。ポイントは、禅師は自覚的に仏道を歩くと言う脈絡で言っているのである。発心して仏道を歩き出だす、修行する、悟りを得る、涅槃に入る。修行が深まるにつれて仏道を生きることが熟してくることは当然だが、しかし、仏道を歩いているということでは、初心者もベテランも同じだろう。仏道とは、何処まで歩いたか、どのようにしっかり歩いているか、の差があるが、歩き続けることが大切なのだ、だから、発心することは修行することで、その発心は一回だけではダメで百千万発しろ、と禅師は説いているのである。
 私には思いあたるところがあった。百千万回発心しろと言うことは、吸いたくなったら、そのたびに発心しろ、と言うことだろう。発心するたびに煙草を吸わない、つまり禁煙の修行をしている。そして、ヨタヨタしながら歩き続けて、考えてみたら最初に禁煙を「発心」した時から今まで煙草は吸っていない。つまり禁煙は成就しているのである。同時に、今まで発心し続けているので、その証拠に今一本吸えば、禁煙の道から転落する。
 道を歩く、というのはこういうものだろう。道は自覚的に歩けばいいので、そのたびに発心と修行、悟りが同時的に働きだしている。だからこそ禅師は別のところで、歩くことは到着することだと言っている。「修行して彼岸に到る(到彼岸)のではない。修行すれば彼岸はすでに到っている(彼岸到)のだ。」(『正法眼蔵』仏教)。
 こう考えてくると、禁煙とはやはり発心して、煙草を吸わないことなのである。

(全文)
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