月刊誌「在家佛教」のご紹介
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平成15年4月号から
平成15年4月号
目 次
ページ
表紙 韓国全羅南道の曹渓山松広寺 編集部・撮影
ブッタの道(40) [グラビア]天台山国清寺の隋代の古塔4
人間としての印赤池 憲昭5

行雲流水
  仏教における「愛」藤井 教公6
  祇園精舎跡発掘余話網干 善教8
  共に学ぶ苦しみと慶び山崎 龍明10
  欧米の思想と釈尊の教え西嶋 和夫13

般若心経は真野 龍海15
戒と日常生活高? 直道36
佛教の成立 2西村 惠信76

日本の再設計梶山 雄一29
ほんとうのいのちとは楠 正弘52

拈華微笑
 動物の死を弔う
坂東 性純34
心月輪
 一、掃除
石上 善應50
如是我聞
 道を歩く
奈良 康明58
同心円
 天からの封書
金光 寿郎66

残されたことば久保田 道江63
大道に生きる武田 博哉74

連載
  老いに学ぶ 12
   ことばに救われる
小島 寅雄60
  會津八一 人生と芸術 11
   歌集『寒燈集』
原田 清68

加藤辨三郎・言葉抄 30編集部・抄録89

 在家佛教通信 50周年記念行事86
 今月の表紙88
 編集後記97
 在家佛教講演会案内98
カット  杉本 順
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平成15年4月号より一部を抜粋します。
「如是我聞」より
道を歩く

奈良 康明
(曹洞宗総合研究センター所長)


 道を歩く。一つの道を歩き続ける。最初は弱々しい足腰が次第にしっかりとし、大地に足をつけて歩けるようになる。しかし最初から道を歩いていることに変わりはない。歩くことの中に、未熟も熟達もあるが、大切なのは同じ道を歩き続けることではないだろうか。
 最近、私は料理に関心を持ち始めている。テレビの料理番組などを見ていて、自分に出来そうだなと思うと、時折挑戦してみることがある。
 しかし料理にはまったくの素人である。だから、レシピに「醤油カップ半杯」などとあると、正確に量って使う。見ていて、家内などは笑うのであって、そんなことしたって、適当な「塩梅」は人によっても違う。材料によっても加減しなくてはならない。その日の身体の調子によって幾分塩辛い方がいい時もあるし、塩辛くない方がいい時もある。杓子定規で計量したって微妙な美味しい味は出ない!ではどうするのかと見ていると、醤油など瓶から目分量でドクドクとついでしまう。その後で味見して幾分手直しすることもあるが、大体そのままで、私などには慣れた、美味しい味になっている。
 では、醤油半杯という指示は不必要なのかというと、それは違うものだろう。先日あるお料理の先生と話をする機会があった。テレビの料理番組にも時々出ている方だと承ったが、やはり、「塩梅」は微妙なもので、醤油カップ半杯では言い切れないものがある。それは一応の目安でしかない。それじゃ最初から目分量で、と言ったら番組にならない。経験のない人には見当もつかないだろう。だからこそ醤油カップ半杯、と指示する。しかし、一応の目安であることをも説いて、経験をつんで貰うことを期待する。しかし、その上で、醤油の分量はどれくらい、と聞かれればやはりカップ半杯と答えざるをえない。つまり、カップ半杯、というだけのことにも、計量から目分量、そして最後には主体的な「塩梅」までを含んでいる。料理は料理道であり、一生の道だ、歩き続けるうちに次第に上手になってくる。上手な方がいいには決まっているが、大切なのは美味しく作って食べさせたいという誠意を尽くしながら歩き続けることだ、と言われた。
 仏道を歩くのと同じだな、と私は頷いている。釈尊の亡くなられる直前、スバッダという修行者が、当時沢山いた修行者の中で誰が本物か、と問うた。釈尊は八正道を歩く人が真の修行者であり、口先だけの教えを説くのは修行者ではない、と答え、続いて、上に掲げた詩を説かれた。ここに大切なのは、出家してから「五十余年」と言われていることである。釈尊は二十九歳出家、三十五歳成道、そして四十五年間にわたる教化生活を送って八十歳で亡くなられている。しかし、悟りを開いてから道を歩きだしたのではない、出家したその時からすでに道を歩いていたのであり、だから六年の難行苦行の時代を含んで五十余年、修行者としての道を歩き続けてきた、と言うのである。
 道を歩くと言うことはこういうものだろうと思う。いくら釈尊でも最初から悟っていたわけではないし、心境が熟していたわけではない。それにもかかわらず、道理と真実の道は歩き続けていたのである。
 釈尊の説いたのは信仰の道だが、人生の智慧とも十分に響きあう。料理道にも、ビジネスの道にも、商売の道にでも、同じことが言える。剣術や柔術でなくて剣道、柔道、と言い、野球道などという言葉もある。歩くべき道は沢山あるが、大切なのは、釈尊の言うように、道理と真実であろう。真実にもとらず、人間としての普遍的な道理に則っている道を、及ばずながらも、歩き続けたいと思う。


残されたことば

久保田 道江
(鎌倉良寛会副会長)

 鎌倉良寛会々長小島寅雄先生が急逝されたのは、昨年十月二十六日の夕刻のことでした。ご家族に見守られ、静かに息をひきとられたと聞いております。その一時間程前に、私はN氏と病室を訪れました。先生のお姿はベットに横たわりお体は海の方にむけられて、目を閉じていられました。何か声をおかけしても「うん、うん」とうなずかれるだけで、お話は出来ませんでした。
 ご入院中もベットの上で依頼された原稿、随想、詩、歌、そのあいまに付添われている奥様やお孫さんの何げないポーズをスケッチなど描かれていられました。枕元には数冊のノートが置かれていました。書くことが生きている証しと思われたのでしょうか。体調のよい時はペンを持っていられました。お体は呼吸困難や、はげしい頭痛に悩まされながらの状態でいらっしゃいました。
 次々とみえるお見舞いの方々に気遣われ、いつもの先生のお顔をみせて、軽い冗談をいわれ、やさしい対話で接していらっしゃいました。
 たしか十月三日にお伺いした時のことです。椅子をベットの近くに寄せるようにといわれました。先生は耳も遠くなられ、お声も小さく、聞きとりにくいと思われたからでしょう。
 「僕はここに来て(入院して)、はっきり判ったことが二つあるんだ。その一つは老いれば事実として死が目の前にみえると書いたり、言ったりしてきたが、実はそうではなかった。死なんて見えないんだよ、確実に近づいていることはわかるんだが。一体いつ見えてくるのか。生と死は隣り合わせに住んでいるがその存在の意味はまったく違う。そこには十万億土もある巾広い溝があるから、生ははるかに死を眺めている。本当の死は見えてこない。人はその死が完全に見えるまでは、まだ希望を持っているからなんだ。人に本当に見えるときがあるのだろうか。あるとすればそれは死の瞬間だと思うのだが、判んないんだよ。判んないことを判ったように言ってしまって申し訳ないと思っているんだ。
 もう一つはね、夫婦、親子、孫、曾孫、それによき友、この絆の深いこと、強いことがはっきり判った、日頃は判らないんだよ、うれしい、ありがたい、とおっしゃいました。私はこの大事なお言葉を忘れないようにメモをとりました。

 八月の末頃から十月の初めにかけて、書き記されたものの中から、先生の想いを抜粋してみました。

海辺の丘に建てる病院の夜は
静かな 満天の星

老いて貧しく 生きる

まよなかの白い病室 黒い影
これが秋の静かさなのか 夜更の浪のおと

送り火が消えてさみしい月明かり

友もたぬ少年はある日放課後に
松山に入り 初茸をとる

少年のころ恋がありふるさとの
松の林の枯草の道

ふるさとの海辺の丘の病院の
白きベットで 波の音きく

 戻る
故里に戻ってきて
故里のあたゝかさ
なつかしさがわかった
人は戻ることも必要だ

海よ
一度でいいから荒れ狂ってくれ
もうながい間
定規で引いたような正確な一本の水平線が
海と空の境を示し
浪一つない青い海には
白い帆を立てたヨットが二そう三そう
いつも泛いている
平和な静かな海だけをボクに見せている
しかし今ボクは
病院のベットに二ヶ月以上横たわって
海を見ているのだが
ボクの病状は一向に快方にむかない
いまいらいらしているのだが
このいらいらをどこにぶっつけたらいいのだ
―後略

 苦しい闘病の心のうち、故里への想い、少年時代の淋しい思い出を切々と書かれています。
 良寛のこと、わが師と仰いだ利休、世阿弥、心を育ててくれた人々はみな一様に、その思想の根底には仏の教えがあったと述べていられます。
 偉ぶらず、飄々として、誰にも優しく、温かく、文学を愛し、絵を描き、歌をよみ、自在に生きてこられた先生。
 良寛を語らず、良寛的生き方、或は精神を自から示され、私たちを魅了した先生。よきご縁を心から感謝いたします。
 ありがとうございました。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

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