月刊誌「在家佛教」のご紹介
 バックナンバー 

平成15年3月号から
平成15年3月号
目 次
ページ
表紙 韓国全羅南道の智異山華厳寺 編集部・撮影
ブッタの道(39) [グラビア]鳩摩羅什の塔廟4
いのちを継ぐ伊藤 唯真5

行雲流水
  「もったいない」の回復早島 大英6
  生命科学・生命産業・いのちの尊さ島薗 進8
  洒落が洒落じゃなくなって工藤 定次10
  テロ犠牲者をいかに救うか安田 暎胤13

心のとるかたち坂東 性純16
釈尊の出家の目的とは 下田上 太秀52
佛教の成立 1西村 惠信92

同心円
 視界半径五十センチ
金光 寿郎32
心月輪
 名聞利養
石上 善應50
如是我聞
 悪口
奈良 康明70

無量寿のいのち田畑 正久45
死を身近に池口 恵観64
『方丈記』の色彩池見 澄隆72
宿業・業熟体を生きる中村 敏郎78

アメリカ南部のある日曜日柴田 文啓76

連載
  老いに学ぶ 11
   一生一路の信念
小島 寅雄34
  會津八一 人生と芸術 10
   歌集『山光集』
原田 清83

加藤辨三郎・言葉抄 29編集部・抄録99

 今月の表紙89
 在家佛教通信 50周年記念行事90
 編集後記105
 在家佛教講演会案内106
カット  杉本 順
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平成15年3月号より一部を抜粋します。
「行雲流水」より
「もったいない」の回復

早島 大英
(横浜・浄土真宗本願寺派宣正寺住職)


 島津製作所の田中耕一さんが、ノーベル化学賞を受賞された話題は、ここ数年来、閉塞感に沈む世情に、明るい希望と勇気をもたらして下さいました。
 私たちの身体はタンパク質でできていますが、その生命現象の解明や、病気治療に、田中さんの開発したタンパク質の解析方法が画期的な道を開いたといいます。
 田中さんの研究した方法は、タンパク質にレーザーを当てて、タンパク質をイオン化して分析するという方法ですが、直接レーザーを当てると、タンパク質がこわれてしまうので、当初は、いかにタンパク質をこわさずに分析できるかの研究が日々続けられたそうです。
 そんなある日、田中さんは、まちがってコバルトの金属微粒子とグリセリンを混ぜてしまったのですが、しかし、捨てるのは「もったいない」と思い、そこにタンパク質を入れてレーザーを当ててみたところ、わずかではあるがイオン化されたタンパク質のデータが観測されたというわけです。
 この大発見が、ノーベル賞受賞の有名なエピソードになりました。
 今日、田中さんの開発した方法によって、タンパク質の研究は飛躍的に進歩し、さらに今後は、血液一滴からでも、ガンなどの診断が可能な装置の開発も可能になっているといわれています。
 さて、今年の一月、ノーベル賞受賞後、帰国して初めての講演の中で、田中さんは、「あの発見は試料をもったいないと思ったから生まれた」と語り、「『もったいない』は英語にない概念。日本語を捨て、日本語にしかない考え方を捨ててしまってはもったいない」とユーモアを交えて述べられ、「日本語にしかない思考回路」を大切にすべきだと力説したことが、新聞紙上に報じられていました。
 まさに、失敗は成功の母といいますが、「もったいない」が、失敗を偉大な成功に導くキーワードとなったわけです。
 ところで、広辞苑をひくと、

もったい【勿体・物体】(物の本体の意)(1)重々しいさま。物々しいさま。(2)尊大なさま。
もったいない【勿体無い】(物の本体を失する意)(1)神仏・貴人などに対して不都合である。不届きである。(2)畏れ多い。かたじけない。ありがたい。(3)むやみに費やすのが惜しい。
 このような説明がなされています。
 私なりに解釈すれば、「もったいない」は、ものごとの持ち味、存在意義を十分に活かすことができなかったら申し訳ないという、そんな気持ちの込められた言葉ではないだろうかと思います。
 日常の会話では、「もったいない」は、(3)の、無駄に費やしては惜しいという意味で使用されることがほとんどです。しかし、そうした用法でも、私には、どうもその根底に、佛さまのお心に背くことがあっては申し訳ないという慚愧の精神が息づいている言葉に聞こえてならないのです。
 ちなみに、蓮如上人における「もったいない」の語は、『御文章』や『御一代記聞書』に計六ヶ所ほど見受けられ、すべて(1)の用法で、「もってのほかである」とか、「不遜なことである」等の意味で使われていますが、重要なのは、いずれも佛さまに対して慚愧の心をもって使用されている点であります。
 念佛者においては、「もったいない」は単なる倹約・節約の精神から用いられてきた概念ではなく、むしろ、すべてのものごとは「佛物」(佛さまから恵まれるもの)であるから、尊重の念をもって大切に対応すべきだという、佛智讃仰の精神から使用されてきた言葉であると、私は理解するのです。その意味では「もったいない」は、いかに節約するかでなく、いかに生かしていくかというプラス思考の言葉だともいえます。
 死語になりつつあった「もったいない」が、田中耕一さんの功績によって回復されつつあることは、実にうれしく有難いことであります。
 大谷派の碩学・金子大榮先生の遺された言葉に、「幸福三条」と呼ばれるものがあります。
人間に生まれた 有り難さ
佛法に遇える かたじけなさ
今日を生きる もったいなさ
 たまたま、金子先生と縁戚にあたる妻を迎えたことから、私はこの言葉を知りました。
 佛智を仰げば、世の中にあるものごとはすべて「もったいない」ものだと知らされてまいります。そして、その中でも最も「もったいない」ものは、佛さまの願いに応えていくべきわが身であるということを、念佛者の思考回路として大切にしたいと思うものであります。

死を身近に

池口 恵観
(烏帽子山最福寺法主・医学博士)


(前略)

 高野山の高僧で坂田徹全という方がおられました。数々の名説教を残しておられますが、その坂田猊下は、死を便所に見立ててお説教をしておられます。

(中略)

 死は、いつ何時、訪れるか分かりません。それはお客さまと一緒なのです。来客ならば、どこのご家庭にもある。長居をすれば、トイレを拝借となる。いや、今、汚れておりますからと、断るわけにも参りませんから、常に準備しておくわけです。
 では、死に対して何を準備するのでしょうか。まず思いつくのは、経済的なことでしょう。借金があれば、先延ばしにしないこと。会社に勤めておられる方は、同僚に迷惑がかからぬように、いつも仕事をテキパキと処理しておくこと。また、預金通帳や生命保険の書類を入れた場所を教えておいて、家人が困らぬようにしておく必要もありましょう。身近をきれいにして置かれるのが良いのですが、もっと大切なことがあります。
 今、この瞬間が最期となるかもしれないという心構えであります。眺めている風景が見納めになる。庭の花や道路に転がっている石も、冷たい冬の風も、また喧嘩した友人や意地悪された舅や姑、時には子供や夫、妻といったあらゆる関係の物や人との永久の別れとなる。これが死であります。
 そうなりますと変哲もない花にも心を感じ、路傍の石されも愛しく感じる。憎らしかった友人も、考えてみれば良いところが沢山あったのに、と。小言をいわれた舅や姑も、おそらく歯痒い思いで親切に注意をして下さったのであろうと、悪意で受け止めてきたことが感謝に変わります。これが一期一会であります。この瞬間は、二度と来ない。その気持ちが諸法無我の境地にさせる。
 わたしたちは、独りで生きているのではありません。たとえ天涯孤独の身でありましても、ご飯を食べれば、それを作ってくださったお百姓さんがいる。魚に箸をつければ、それを荒海から獲ってこられた漁師さんがおられる。また米の命、魚の命を頂戴して、こうして生かしてくださる。ありがたい、ありがたいという気持ちになれるのが、死を身近に置くことの功徳であります。
 坂田猊下のお説教は、そこまで考えさせて下さる。

(中略)

 明日、死するかも知れないと思えば、何一つ出し惜しみする必要がありません。ちょっとした心遣いが他人を救う行為となるのです。
 このごろになってテレビや新聞でも宗教教育の必要性が叫ばれておりますが、どうも宗教というだけで、文部科学省は、尻込みしてしまうありさまであります。社会がこうまで病んでいながら、なぜ正しい宗教を教えるのを躊躇するのか分かりません。青少年の教育は、国家の根幹であります。次の世代を担う貴重な人材を、今、わたしたちが手を差し伸べて、わずかばかりの宗教心でも培うことが出来れば、世の中も大きく変わって参ります。これは、わたしたち大人の責任であります。国民のひとり一人がご自分の宗教を持ち、とりわけ佛教の教えを日課として範を垂れる。そうやって地道にご家庭に信仰を持ち込んで、お子さんやお孫さんといった幼い子供の心に佛心の種を蒔いて上げるのです。
 常に自らの死を身近に置いて、感謝の気持ちで共に生きたいものであります。

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