「行雲流水」より
倶會一處
笠伊次郎 (日本心身医学協会理事)
数年前に墓地を手に入れて念願のお墓を建てた。九州のお寺の納骨堂に預けてあった両親や兄などの遺骨を引き取り、新しいお墓に納めることができた。墓碑銘はずっと前から『倶會一處(くえいっしょ)』と決めていた。どうしてもそうしたかったのである。それには、ちょっとしたわけがある。
一つには、小学校のとき両親に先立たれ、浄土真宗のお寺で小僧をしていたため、阿弥陀経に親しみ、その中に出てくるこの言葉が好きだったこともある。しかし、なぜ好きで、どうしても墓碑銘はこれでなければならないと決めたのには、次のような理由がある。
私の父は笠という家に生まれたが、平田分家の婿養子になり、平田姓を名乗った。一男二女をもうけたが、妻に死なれ後妻をもらった。つまり私は後妻との間にできた子である。私がもの心ついたとき、我が家は両親と兄と私の四人家族だった。上の姉はすでに嫁ぎ、下の姉は父の親戚の養女になっていたからである。父は笠姓に戻り、私も笠である。しかしそんなことにお構いなく、兄も姉も年の離れた私を可愛がってくれた。十歳年上だった兄は家計を助けるために役場に勤めていたが、大の映画好きで、私をよく映画に連れていってくれた。無声映画からトーキーに変わるころだった。私が映画好きになったのは兄の影響に違いない。下の姉は看護婦になって大阪の病院に勤めていたが、毎月私に「少年倶楽部」を送ってくれた。これが私が活字に親しむきっかけになった。
家は貧しかったが、私は父母と兄姉の愛情をたっぷり受けて大きくなったことを誇りに思っている。父が脳卒中で倒れ、一人で家計を支えるため(だったと思う)兄は郵便局に転職して配達夫になった。やがて、肺を冒され、疲れ果てて帰宅すると靴も脱がず、畳の上に倒れこんでいたことを覚えている。
昭和十四年、無理を重ねた兄がまず死に、翌年父も亡くなり、次の年母も私に心を残して旅立ち、私には平田家と両親の位牌と墓だけが残された。その墓ももともと平田分家のもので、私の父母はその墓の一角に埋葬された。その後区画整理で墓を掘り起こし、私のいた寺の納骨堂に預けてあったのである。
近くにお墓を建てたら、平田家も笠家もなく一緒に納め、供養するのが私の夢だった。なぜなら兄は私をあんなに可愛がってくれ、家計を支えてくれた大事な人であり、先妻はその兄の大事なお母さんであり、またその人の両親(母方の祖父母)あってこそ、兄もこの世に生をうけることができたのであるから。
ずっと前から両家の位牌はわが家の佛壇に仲良く納まっている。私は平田家と笠家それぞれのずっしりと重い二つの骨壷を抱えて東京へ戻ってきた。こうして、父母、兄、先妻とその両親も安住の地を得たのである。
先妻と後妻を同じ墓に葬るなんて、と思われる方があるかもしれない。だから『倶會一處』なのである。死んだら恩讐を超えて、阿弥陀様の浄土でみな一緒、分け隔てない。『摂取不捨』、阿弥陀様はどんな悪人も一人残らず救い取ってくださる、この言葉も私は好きである。
「あんな姑と同じ墓には入りたくない」「死んでまで夫と一緒はごめん」そんな声を聞く。何があったか知らないが、浮世では仲が悪くても、佛様に救われたら、同じ浄土で仲良くありたいものと思う。
最近、「共生」という言葉が流行っている。自然と人間との共生、民族、歴史、文化、宗教を超えての共生、そんな大きなことでなくても、回りの人の考えを理解し、お互いの違いを認めながら仲良くすることは、決してむずかしいことではないはず。「おれが、私だけ」でなく、「私もあなたも」の世界である。交流分析ではこれが「アイムOK、アーユーOK」という理想の人間関係である。
まず身近なところから始めよう。報復に報復、血なまぐさい悲惨な世界の現状を見るとき、私は『倶會一處』という言葉を死後にせず、現代にぜひ生き返らせたいと願うものである。
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