「行雲流水」より
島の旅
辰繁 存 (元エフエム富士社長)
隠岐の島に行ってみませんかと、親戚の娘に誘われた。会社の一週間の休みに国内の遠い島で、おいしい魚を食べたいと言う。家内はすでに乗っている。二人の運転で我が家から境港まで、七百キロの高速道路を走った。列島中央部の山々に秋色濃い頃。
隠岐とは島前(どうぜん)、島後(どうご)、四つの島と他に小島百八十余の総称らしい。フェリーは波静かな海を二時間半。先ず島後の西郷港に着いてから、四日間、車で三つの島を駆け廻った。
道はよく舗装されているが、島の車はゆっくり走る。ペースを合わせるのに一日かかった。島の言葉も車の走りに似て、のびやかだ。人情もそうなのだろう。放牧牛が悠々と遊ぶスカイライン、焼火(たくひ)神社の眺望、国賀海岸の奇勝を楽しみ、夜は海の幸を盛った食卓に向かえば、この島を日本海の楽園という観光宣伝文句も強ち誇称とは思えない。
西ノ島の由良比女(ゆらひめ)神社では、社前の入江の波打際を、三、四人の土地の主婦らしい婦人が、先に鉤のついた棹を振りかざして走り廻っていた。傍らの説明板に、ここはかつて烏賊の大群が押し寄せ、人はそれを掬い捕った「烏賊寄せの浜」とある。一人のおばさんが寄って来て「今でも捕れるんだよ、先刻捕ったのを見せてあげようか」と、ビニール袋を開けた。見たこともない大きな烏賊、足の先まで計れば一メートルはあろうか。一旦冷凍してから食用とする、今頃から正月まで捕れると言う。浜で歓声があがった。また捕れたらしい。棹の先に大きいのが躍っている。案内書には烏賊の来たのは昔の話とあるのだが、ここはまだ伝統が生きている島なのか。旅の興、油然と湧く一景だった。
さて私にとっては、風光よりも史跡に悲しき隠岐の島。後醍醐帝は一年ばかりで危く脱出されたが、後鳥羽院は四十一歳の年に流され、十九年間この島から出ることなく遂にこの島で亡くなられた。中ノ島海士(あま)町に火葬塚がある。
院の事績を若い人には、どう説明したらいいのだろう。明治までの史書では、人使い荒く蹴鞠などの遊びごとに耽り、あの承久の乱は院が彼我の実力を見誤った軽挙と、あまり評判は良くない。だが、伝えられるように文武諸才に秀でた院が、資質、軽佻の人だったのだろうか。長年の疑問である。
ご在所趾附近は、現地の解説板によれば地形がかなり変わったらしい。当時はもっと海が迫っていたようだ。より風情のある地域だったのかもしれない。だがいずれにしても、そこは「水無瀬(みなせ)殿おぼし出づるも夢のよう」(増鏡)な鄙の茅屋だったに違いない。十九年という年月、その明け暮れを偲んで、しばし徘徊。陵の前に小さな池があり、一首を記した歌碑があった。「蛙なく勝田の池のゆふだたみ聞かましものは松風の音」。この時、痛切な思いが胸を貫いた。
「われこそは新島守よ」の歌は小学校で覚えたものだ。今は「遠島御百首」、悲嘆、哀傷の歌群の中にこの歌をおいて、そこにある自嘲も読む。そう解しても一首の価値は、いささかも減じないだろう。
後鳥羽院は史上、冠たる歌人。院の指揮によって編まれた新古今和歌集は、詩歌史上燦然と輝く金字塔。これを見失っては日本文芸など殺風景なものだ。院がこの島で、晩年なおその歌集の改訂に過ごした、それは、日本の美学史上、最も濃密な時間の流れではなかったか。また、乱後すぐ僧形になられたというが、最晩年、この地の松風を聞くうちに佛道への思いも深められたのではないか。「遠島御歌合」の歌、文から、無常感、諦観を読んでの想像である。
しかし、こんな話は若い人に説きようもない。「ここを訪ねた記念に、後鳥羽院の歌を一つでも二つでも覚えなさい」。
島の夜の食堂では、ちょうどテレビが米軍のアフガニスタン空爆を報じていた。どうして人間はこんな殺しあいを続けるのでしょうと、女たちが言う。報復の怨念は殺戮を繰り返すのみ。そうだ。もし米軍がB氏を捕らえたら、西部劇のように吊さず、佛教国日本の例えばこの島に閉じ込めてはどうか。その時は世界世論を背景として、海上自衛隊は日章旗を掲げて日本海を警備する。
島の地酒の酔いである。B氏は自決の道を選ぶかもしれないし、今の日本にそんな度量も度胸もないだろう。第一、島の人には迷惑な話。どうしてだろうな、と空しくつぶやき地酒の盃を重ねるのみ。
四日間毎日、暮れ方になると車を西の海岸に駆って、海に沈む日を眺めていた。空一面を紅く染め、日はゆっくりと遥かな海に落ちる。若い人は眼を滲ませる。「明日、日はまた昇るよ」「そうですね」と娘もうなずいた。
<追記>旅から帰ってくると、目崎徳衛氏著「史伝・後鳥羽院」が上梓され、承久の乱についても貴重な教示をいただいた。
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