「行雲流水」より
毛越寺の延年を訪ねて
黒川 文子 (NHK学園講師)
佛教の伝統行事に興味を持って、さまざまな行事を歩いています。
六月後半の夏至の頃、平泉の毛越寺を数十年ぶりに訪ねました。たまたまその日は日曜日、毛越寺では浄土庭園においてあやめ祭りが開かれていて、さらに毛越寺に伝わる延年の舞も催されることになっていました。平泉の駅を降りて真っ直ぐに歩いていきますとそこが山門で、中に入ると浄土庭園を眺めることのできる位置に舞台がつくられていました。浄土池の向こう側には常行堂が簡素な姿を見せています。
「延年」とは本来は厳寒の一月二十日、常行堂において、毛越寺の開祖慈覚大師以来の秘法である常行三昧供の後に行われる芸能ともいえるものです。常行堂は中央に宝冠の阿弥陀佛を安置し、その真後ろには毛越寺全山の総鎮守、摩多羅神が祀られ、延年とはこの摩多羅神に奉納する芸能の行事です。辞書によりますとこの神は慈覚大師により『阿弥陀経』の守護神として請来され、常行堂の守り神として祀られるようになったとあります。
私が訪ねたその日は延年の舞の一部が披露されることになっていました。従って舞のみでは厳密にみれば佛教の行事ではないのかもしれませんが、元々、「延年」には法会の後にそこに集うすべての者達の延年即ち長命を願うという意味があったのですから佛教行事の中に入れることができると考えています。『毛越寺の延年の舞』という冊子を買ってから私は舞台のすぐ脇に座って始まるのを待ちました。
舞台正面には忌竹がたてられ、上方には「雑華」といわれるそうですが、半紙を桐、抱茗荷、蕪、鳥居等の形に切りぬいたものが注連縄に結び付けてありました。忌竹や雑華は一月に行われる常行堂内の荘厳を模したものといえます。初夏の陽射しの中、風が吹いているとも思えないのですが、忌竹の葉がそよいでいました。「路舞(ろまい)」「若女(じゃくじょ)」「老女」の三つの舞が行われること、そして延年についての簡潔なしかもわかり易いご説明があり、やがて三人の僧侶が紙を張った田楽踊りの太鼓を持って舞台左方に座りました。その太鼓を笏で打ち古風な歌を始めると中央では二人の童子が舞い始めました。これが「路舞」です。四垂(しだ)を垂らした日月の模様のある烏帽子をかぶり茶色の裁著の男の子達は懸命に舞っています。内容は慈覚大師が入唐の後、清涼山で出会った童子の舞と伝えられています。歌詞の意味はよくはわかりませんでしたが、歌の最後に繰り返される「リーリヤ、リーリヤ、リーリヤリー」の歌詞が今でも耳に残ります。ゆったりとした二拍子の田楽太鼓の音は初めて聞いたとは思えないような懐かしい響きとなって毛越寺の空へと舞い上がっていきました。
次いで「若女」、最後が「老女」の舞です。老女は白髪のかつらに老女面、水干に下袴をつけています。手には鈴と扇を持ち腰をかがめたままの舞です。僧侶のご説明では老女の舞は「よろぼいながら舞う」とのこと、よろぼいながら?どういうことかしらと思いつつ見ていました。百歳の老婆が老いてよろけながらも矍鑠(かくしゃく)と舞う姿は感動でした。腰を折ったままの姿勢で足は床を摺り時に踏みあげます。舞い手にとっては高度な技術の要求される舞でしょう。手はほとんど動いているようには見えないのですが、鈴の音が時折「シャン、シャン、シャン」と三回、力強く響きわたります。私はすっかり老女の舞に引きこまれてしまいました。初々しい「路舞」の童子「若女」の美しい舞姿はなくそれらとははるか遠くはなれた、人の行き着く姿を見る思いでした。感動はいつか涙となってあふれてきて老女の姿もかすんでしまった時、その老女の姿にほんの三ヶ月ほど前に亡くなった私の母の姿が重なって見えてきたのでした。「シャン、シャン、シャン」という鈴の音は、母のことばのように私の心の深い処に沈んでいきました。舞台前面の低い手すりを飛び越えて老女の手をとりたいほどでした。けれどもこれは決して越えることのできない生と死を分ける手すりです。身を乗り出しながら私は「よろぼいながら」「舞う」姿を見せてくれる母、いえ老女の姿を見つめていました。
今でも「延年」というとあの「老女」の舞が思い出され、鈴の音は母の声と思わずにはいられません。それは私が何か特別な体験をしたということではなく、佛教行事の持つ一つの側面かもしれません。毛越寺の場合ですと以前は秘法として公開されなかったともいわれる「常行三昧供」のように寺院本来の行法は別としてその前後に必ず一般の人達が関わることのできる側面即ち「延年」がありました。それはまた佛教と人との接点と言えるのではないかと思います。そこでの祈りや感動こそが人々に佛教を実感させたことでしょうしそこからやがて日本の様々な文化も生まれてきたように思います。
あの日以来、私は「よろぼいながらも舞う」日々を過ごしたいと願うようになりました。
|