「行雲流水」より
鐘の音
原田 清 (歌人)
朝か夕べか定かではない。薄明の中のぼんやりとした意識の底に遠い鐘の音がする。まだ物心のつかない幼児期の思い出。あたたかく、ふんわりと幾重にも包まれて、空に浮くような意識があった。上り框(かまち)に腰を下ろした母に抱かれた時の大きな胸の汗の匂いと共に不思議に、唐突に甦る。後年、記憶の上に作りあげたものか如何はわからない。遠い日の現実として、ふと胸奥から湧き上がってくる。
それよりやゝ後の少年時代、忌わしい戦争の始まった頃、東京郊外の農村のどこの家でも、遠近の寺寺の梵鐘の音が聞かれた。季節により、風の向きにより、やわらかく、懐かしく、人々の胸に響いていた。父や母はその音色や、方角から、何処どこの寺の鐘だなあなどと呟いていた。何とはなしに明日の天気を予測していたのかも知れない。つつましく、貧しい生活があった。春秋の彼岸、孟蘭盆、年々歳々、何を欠くと言うこともなく、季節と共に過ぎていった。寺の御会式は唯一の賑わいであった。境内に、サーカス、見世物の興業がかかり、多くの屋台店が並んだ。小学校は半ドンになって、子供達が散った。
鐘の音に耳を傾け、深く思いを寄せるようになったのはさらに後年。世に出て、幾たびか、呻吟を重ねてからのこと。行く年、来る年の各地の古寺の名鐘を聞いて、甘酸ゆい悔恨を覚えるのだった。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす」。平家物語の冒頭の一節を諳んじたのもなつかしい。同じ年頃、いつとはなしに心に留まった詩句、
「鐘の音に 胸ふたぎ 色かへて
涙ぐむ 過ぎし日の思ひ出や」
西欧の詩の名訳と言う。
今も、村々や都会の教会の鐘は鳴り渡っていよう。悲しみに打ちひしがれ、あるいは志を得ないまま陋巷に一人老いをむかえる人。また失った恋、仕事に追われた一日の終り、それぞれの人の耳にさまざまな色合いに響く。洋の東西を問わないだろう。
今私は一人の歌人の短歌を思い出している。東洋美術史家で書家としても近代の第一人者と言われている会津八一の一首である。
ひそみ きて た が うつ かね ぞ さよ ふけて ほとけ も ゆめ に いり たまふ ころ
<ひそみ来て誰が打つ鐘ぞさ夜ふけて佛も夢に入り給ふころ>
歌集『寒燈集』の「観音堂」の歌である。先の大戦の末期、B29の空襲で、万巻の書籍、美術品、貴重な拓本などことごとくを焼失して故郷新潟に逃れた。さらにその地で、長年生活の一切を託して来た養女きい子を失う。慟哭の挽歌「山鳩」を詠出した後、やや鎮静してゆく心にうたった。
秋も深まった夜ふけ誰か人知れず来て、鐘を打ち、祈りを捧げる。人間の営みのあわれである。静けさに満ちたみ堂にひびき、野に流れて消える。
昨年と今年の春の二度、私は四国讃岐を旅した。一つの梵鐘を尋ねてである。昨年は妻とつれだっての長年の憧れの末であった。夜来の雨が上がって、爽やかな春光の中、車は狭い家間の道をぬって、山裾に入る。芽吹き初めた木々の上に巌が聳える。五剣山八栗寺。冷え冷えとした大気を伝わって鐘の音が聞こえて来た。早々にケーブルで登る。しっとりと雨に湿った参道には満開を過ぎた桜の花がこぼれる。参詣の人も、まだ多くはない。白装束の巡礼の婦人がみ堂やみ佛の像に丁寧に礼拝して廻る。四国八十八か所霊場の八十五番札所で、この寺の梵鐘は珍しく、鐘名はひらがなの短歌で、先に述べた会津八一の一首である。
「五剣山八栗寺の鐘は、戦時供出し、空しく十余年を経たり、今ここに、昭和卅年十一月、龍端僧正新に之を鋳むとし、余に歌を索む。乃ち一首を詠じて之を聖観音菩薩の宝前に捧ぐ、その歌に曰く
わたつみの そこゆくうをの ひれにさへ ひびけこのかね のりのみために
秋艸 道人」
原文を漢字かなまじり文に書き直すと
<わたつみの底行く魚の鰭にさへ
響けこの鐘法のみために>
海の底を泳いで行く魚の鰭にまで、この梵鐘の音は響いてゆけ、佛の教えのために。
梵鐘を拝覧し、一打を願っての旅であった。心をこめ、手力を込めて打つ。その音は讃岐の野に消え、屋島の岬から瀬戸の海の底ふかく沈み、魚達の鰭にまで鳴りわたり、さらに五剣山の巌から、はるか天空に一条の光となって、宇宙の果てまでも響いてゆく。心満ちて私達は山を下った。春の萌える野中を一人の巡礼が歩いて来る。
今年の春、八一を慕い、顕彰する秋艸会の人々八十余名のお供をして、再び参拝することが出来た。そして現住職中井龍信師の法話を拝聴する機会に恵まれた。
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