「行雲流水」より
家庭の宗教教育の必要性
山本 孝圓 (天台真盛宗総本山西教寺貫主)
昨今の殺伐とした世相を憂慮し、宗教教育の必要性について思いを馳せます時、私が福井県武生市の引接寺の住職をしておりました折読みました、ノーマンカズンズ氏の次のような日本印象記の一節が思い出されます。
「今日の日本人は、心理的哲学的に根無し草のようにさえ思える。過去と全く結びつかず、未来に対しても無関心で、まるで現在に酔っ払っているみたいだ。」
ここで、根無し草とは、明確な歴史意識を持たず、現在の私的享楽主義的な大衆社会に埋没しておる、いわば滅公奉私的な日本人を指して言っておることは言うまでもないことです。しかし、昨今の凶悪な少年犯罪や罪もない人々への無差別殺人の横行、他者を顧みず露骨に私的利益を優先する社会的風潮を見る限り、問題の「根」はさらに深く、現代人の宗教性の欠如に行き着くように思えてなりません。すなわち、あえて今、この言葉を宗教的文脈のもとに再解釈することをお許し頂ければ、根無し草の人間とは、佛性がありながらそれを看過ないし無視して生きておる人間のことを指して言うことができそうです。佛性という根で、私達は慈愛に満ちた無量寿、無量光の佛の大地につながっておるのです。
近代以降に飛躍的に伸長した自然科学や技術革新の推進を促す人間の知性も、この「根」の健全な育成を俟ってはじめて人類の幸福に寄与するものとなるのです。
さらには人間の理性に基づく道徳教育も、佛性の根を持つことにより、完全なものとなるのです。道徳が個人の行動を律し、人の悲しみや苦しみを理解し、他者と共存する世界の創造に寄与することに何ら異論をはさむつもりはありません。しかしながら、人の苦しみや悲しみを単に理解することを越えて、その苦しみや悲しみを同時に自己の苦しみや悲しみと受け取らせて頂き、共に苦しみ、共に悲しむ心情は、宗教的心情に固有なものです。このような心情こそが、大地(=佛)につながる佛性の発露であり、ことに私達念佛門の浄土教的発想の根底にある尊い信条であることは言うまでもないことです。
わたしたちは、今こそ、戦後の教育の全体を問い直し、共苦感情、共悲感情を培う、知性・道徳教育の土台となるべき宗教教育の意義を改めて考えてみる必要がありそうです。
私は八歳で母と死別し、九歳で出家し、三重県松阪の来迎寺の小僧になりました。家を出る時、叔母が、私が家を出るのは、家が貧乏であるが故の口減らしではなく、亡き母の菩堤を願うが故の出家であると、重々私に言い聞かせてくれました。叔母の言葉を胸に秘め、私は出征兵士が戦争に行くような気持ちをもって来迎寺に旅立ったのです。このような叔母の温かい教育的配慮が私の信力の源となり、来迎寺でつらいことがあっても、お堂の隅に隠れて「南無阿弥陀佛」の六字の名号を称えていると、亡き母が側にきて慰めてくれるように感ぜられ、不思議と心が癒されたのです。さらには戦後ロシアに捕虜として抑留されました折にも、家を出る時の叔母の励ましと、このような阿弥陀佛から授かった自然の信心のお蔭で、つらいはずの収容所での生活を、自らの人間性を陶冶するための修養生活と受け取らせて頂き、堪え忍ぶことができたのです。
わたしが幸運にも幼い頃に培っていただいた信仰への道に対する感謝の思いが、後年、私に、家庭佛法の確立を願うささやかな著書『真盛よろこびの道』を書かせる動機にもなりました。
人が誕生してまず最初に受けるのが家庭教育です。そこでまず最初に、佛の大地にしっかりと根を張ることのできる大慈悲平等の自由自在なる精神を養い育てる「信」の教育が行なわれる必要があります。また、そのような信の確立は、必ずや実生活に持戒となって具現せずには置かないはずのものです。戒の細かな条項を覚え守るというのではなく、小さいころから今生の人生を疎かにしない精神を身につけさせることが肝要なのです。そしてこの精神こそが戒学の根本義でもあり、「信あれば戒なる」(法句経)という原始佛教の釈尊の立場にもつながるのです。そして我が宗門の戒称二門もこのような伝統の上にあることは言うまでもないことです。
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