「行雲流水」より
寝ている子を起こそう
大石 勝男 (元千葉大学教授)
[1]生命と死について考える
「心の教育」の欠如が叫ばれています。教育改革国民会議(座長江崎玲於奈氏)は、危機にひんする日本の教育について次のように提言しています。
(1)家庭は教育の原点である
家庭は、生命を大切にすること、単純な善悪をわきまえること、我慢すること、あいさつができることなどを仕付ける場である。
(2)学校は人間性を育てる場である
小学校に「道徳」、中学校に「人間科」、高校に「人生科」などの教科を設け、死とは何か、生とは何かを含め、人間として生きていく上での基本を教え、自らの人生を切り拓く志を持たせる所である。
(3)社会は歴史を生きる力を育てる場である
宗教的情操に関しては、宗教を人間の実存的な深みに関わるものとして捉え、宗教が長い歳月を通じて蓄積してきた人間理解、人格陶冶の成長について深く考えさせたい。
ところが、矢ガモ、いじめ、キレる、学級崩壊、援助交際、自殺、老人狩りなどの中で子どもたちはどうなるでしょうか。「心の教育」こそ人間としての基礎・基本ではないでしょうか。読み、書き、計算は遅れても欠落してもなんとかなりますが、人間としての生きることは幼いときから培っていかなければなりません。
[2]なぜ、子どもから遠い指導なのか
半世紀にわたる学校の「心の教育」は逃げ腰のように思います。行政は学校に対して「ためらうな」と指摘しますが、しかし学習指導要領は、「死や宗教的情操」については消極的なことしかあげていません。直接に生命に関するものを要約してみましょう。
小学校
一、二年 生きることを喜び、生命を大切にする心をもつ。
三、四年 生命の尊さを感じ取り、生命あるものを大切にする心をもつ。
五、六年 生命がかけがえのないものであることを知り、自他の生命を尊重する。人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつ。
中学校(全学年)
生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する。
人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて、人間として生きることに喜びを見いだすように努める。
これらは道徳の時間のねらい(内容)としてはいずれも大事なことですが、しかしあまりにも高次ではないでしょうか。小学校の低学年の子に対して「生きる喜び」と呼びかけても手が届かないでしょう。中学生に対して「人間の弱さと醜さ」を語っても、言葉としてはわかっても心につながらないでしょう。
しかも学校に対して「積極的であれ」と促してきた行政は「死と宗教的情操」については消極的でした。ときにはこれらをタブー視し逃げてきました。
これでいいのでしょうか。なぜ、家庭内暴力や虐待が発生するのでしょうか、なぜ小学校での殺傷事件などが起きるのでしょうか。
[3]体験的活動を重視する
子どもたちは無手本社会の中で生きています。子どもは大人の姿を映しながら成長します。水も風も大地も汚染されている中で子どもたちはどうなるでしょうか。
親は子どもを連れて墓参りをしたことがあるでしょうか。肩車で鎮守の祭りを楽しんだことがあるでしょうか。ロボットを買い与えるだけでは「十人の子を養う父あり。一人の父を養わざる十人の子もある」(法句経)ということになりかねません。やがて厳父、慈母、恩師などという文字が辞書から消える日がくるでしょう。
学校は「生きる力」を育てるというのであるならば、副読本を開いての道徳指導も大事ですが、どんなに小さなことでもいいから子どもたちに体験させたらどうでしょうか。赤ちゃんを背負ったときの体温と鼓動、高齢者の昔話に耳をかたむけた木影の風など、一つ一つが貴重な学習になるはずです。
一粒の種子を育てて花を咲かせたこと、小さな池でめだかを育てたこと、かわいがってくれた祖父母の葬列に加わったこと、水平線に陽が沈み、地平線に月がのぼるのを静かに見つめたことなど、「生命と死」についての子どもたちの体験をゆたかにしたいものです。
私は東京の下町の公立学校を卒業しました。在学中に亡くなったふたりの友だちの名を今もおぼえています。秋が深まると地域の大鳥神社の祭祀があり、学校は半ドン(半日)になりました。鎮守の森の笛太鼓が鳴るとハッピを着て御輿(みこし)をかつぎました。「生きる力」についての講義をするよりも、それを体験させることが大事ではないでしょうか。
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