「行雲流水」より
大麦とサルと人間 ―生きているものの仲間
菅沼 晃 (東洋大学教授)
ニューデリーの北方、三〇〇キロほどのところに、ガンガー河に沿ってハルドワールというヒンドゥー教の聖地がある。ヴィシュヌ派の人々はハリ・ドワール(ヴィシュヌ神への門)といい、シヴァ神を信仰する人々はハラ・ドワール(シヴァ神への門)とよび、一般にはハリ・ハラの最後の母音を落としてハルドワールという。十二年に一度のクンブ・メーラー祭には何百万という人々があつまり、祭りがない日にもインド中から来た巡礼者たちで賑わう聖地である。
ここにあつまるのは人間だけではない。神聖な動物とされる牛やサルもこの聖地の常連である。かれらは巡礼者や苦行者のなかで、人間と対等に、この聖地に住み暮らしているかのようである。
私はこの聖地で、ちょっと恥ずかしい体験をしたことがある。その日、私は昼食代りにと思ってバナナの一房を露天で買い求め、手にもって歩いていた。そのとき、白い毛並みのかなり大きなサルが私にとびつき、あっと言う間もなく私の手からバナナを奪って逃げた。近くにいた物売りの少年がサルを追いかけ、バナナをとりもどそうとしてくれたが、サルは手のとどかないところに逃げ去っていた。
ところで、このとき、とっさの出来事でぼう然としている私に反応を示したのは、この物売りの少年だけで、巡礼者たちはただ見ているだけで、私に同情している様子はまったくない。見れば、彼らも手に何か食物らしいものを持っている。薄情な人たちだなと思いながらもよくよく観察すると、彼らは新聞紙のような紙にくるんだサル用の食物を用意していて、自分が何かを食べるときには、必ずサルにも食物を与えている。
彼らにとっては、サルたちもこの聖地の神々の分身であり、サルたちとこの聖地で「共生」するためには、何ほどかの「布施」をすることが必要なのであろう。してみれば悪いのは私の方であって、サルたちの側からすれば、私は自分の食事のことばかりを考えていて、サルとの「共生」の手続きである「布施」を怠った無礼者、ということになるにちがいない。
このように考えたとき、私はバナナを奪われたくやしさ、恥ずかしさを忘れて、不思議に納得した気持になったのである。インドの宗教では「布施」の功徳が強調され、とくに佛教では法施と物を施す財施が説かれるが、生きもの同士の「共生」をはかるとき、心とともに「物」を仲だちとすることが、かなり大きな意味をもつことに気づいた、と言ってもよいであろう。
サルは哺乳類であるから「生命をもつもの」として私たちの仲間として考えてもおかしくない。ところが、インドの生命の観念は植物にも及ぶ場合がある。最近、私は「植物にも生命がある」という意味の記述を、サンスクリット文法学の文献のなかで見つけた。
サンスクリットはBC五−四世紀のころ、西北インド出身の天才的文法家パーニニによって文法体系がつくられた。パーニニの文典には多くの註釈書が書かれたが、もっとも重要な註釈とされるのは、パタンジャリ作といわれる『マハーバーシュヤ(大註解書)』である。
この註釈書のなかに「食べさせる」という意味をもつ使役動詞について述べているところがあり、そこでは「食べさせる」ということが他に害を与える場合と、害を与えない場合があるという。たとえば、「彼は子供に食物を食べさせる」という場合は、「食べさせる」ということによって害を受けるものは何もない。しかし、
「彼らは牝牛に大麦を食べさせる」という場合には、「食べさせる」ということが大麦に害を与える、という。牝牛に大麦を食べさせることが、どうして大麦に害を与えることになるのか。
後の註釈家によれば、この例文中の大麦は発芽したばかりのもので、チェータナ(「有情」の意)とよばれるという。古代インドのサンスクリット辞典『アマラコーシャ』によれば、チェータナは「生きているもの」「人間」などと同じ意味をもつとされている。
つまり、チェータナとよばれる時期の大麦は、まさに「生きもの」「生命をもつもの」とされるのであり、だからこそ、「牝牛に大麦を食べさせること」は、大麦を害し、大麦の生命を奪うことになるというのである。
「生命をもつ存在」「有情」とみなされる植物は、大麦のほかにまだあるであろう。インドの宗教道徳においては、「非暴力(不殺生)は最高のダルマである」とされることからすれば、生命ある植物も傷つけ、害してはならないことになる。
人間や動物ばかりではなく、植物までも同じく生命をもつものと見る世界観は、「共生」を人間と人間の問題にとどまらず、人間と環境の問題にまで拡げて考えるとき、重要な示唆を与えてくれるように思われる。 |