月刊誌「在家佛教」のご紹介
 バックナンバー 

平成13年6月号から
平成13年6月号
目 次
ページ
表紙 インド・ブッダガヤー大菩堤寺大塔 編集部 撮影
ブッタの道(18)〔写真〕ブッダ像・スリランカ
4
「信ぜざれども敬す」前田 惠學5

行雲流水
  少年の頃鰺坂 二夫6
  三頭八臂と丈六八尺小倉 玄照8
  後期佛教の輪廻説梶山 雄一11
  而今に生きる中村 良観13
老いること・病むこと<遺稿>武藤 義一16
武藤先生を偲ぶ金光 寿郎31
追悼 武藤義一先生中村 寛之助34
金子みすヾ・宮沢賢治の宗教観(下)瀧藤 尊教48
一道を歩みつづけて 9
 大慈悲の心
大石 法夫40
中川宋淵老師佐々木 安麿58
玄裝三蔵法師 13
 世界の屋根を越える
山田 法胤68
恩師常本憲雄先生大須賀 発蔵62

私の佛教遍歴山川 健治38
お地蔵さまと一緒春野 健治46
佛縁に生かされて古澤 龍堂84

いのちをみつめて 2
 出生のかたち
柳澤 桂子73
自然と生命の物語(6)上田 悟78
日本佛教の流れ 22
 天台密教の僧たち(三)遍昭・安然
田村 晃祐86
加藤辨三郎・言葉抄 9編集部・抄録92

 今月の表紙91
 在家佛教催し物案内<佛蹟巡り・坐禅会>57
 編集後記97
 在家佛教講演会案内98
カット  杉本 順
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6月号より一部を抜粋します。
「行雲流水」より
三頭八臂(さんずはっぴ)と丈六八尺

小倉 玄照
(岡山・曹洞宗成興寺住職)

 紫外線の異常な強さが問題になりだしたせいか、このごろは下火になってしまった「はだか保育」であるが、私の寺の保育園では、まだまだ裸ん坊天国が健在である。皮膚ガンになるほどに裸を紫外線にさらす必要もないが、やみくもに太陽光を忌避するのは不健康である。
 裸ん坊は、強制ではない。外遊びのおりに子どもが気持ちよさを感じて服を脱ぎだせばそれを奨励しているだけである。パンツも脱いでフルヌードになって砂場遊びをしていても職員誰もがさりげなく黙認。長年、乳幼児たちと関わっていると、こだわりなく裸になって遊ぶ子が、心身ともに健康なことが感覚的にわかってくる。裸になろうとしない子は心を自由に開放できないこだわりを内に秘めているように思える。

 もっとも道元禅師は『正法眼蔵随聞記』に、

 「世俗の礼にも、人の見ざる処、或いは暗室の中なれども、衣服等をも着かゆる時、坐臥する時にも、放逸に陰処なんどをも蔵(かく)さず、無礼なるをば、天に慚ぢず鬼にも慚ぢずとてそしる也。ひとしく人の見る時と同じく、隠すべき処をも隠し、慚づべき処をも恥づる也。」

 と示される。
 これは、乳幼児のしつけを問題にしているのではない。しかし、南無佛像として有名な聖徳太子二歳像は、局所を布で被ってある。大人社会の倫理観で幼少時からしつけをして行くことは、ごくあたりまえのことと考えれば、お寺の庭でフルヌードで子どもを遊ばせるのは奇異なことかもしれぬ。
 ところが先頃縁あって神戸心療親子研究室を主宰する伊藤友宣先生の公開講演会を寺の保育園で開催して目からうろこの思いを味わった。子育て、しつけ、登校拒否等の親子関係を中心に二十年以上に及ぶカウンセリング活動の経験をもとにして、私たちの常識的感覚に問題を投げかけられたのである。
 人間の心の深層には「我(エゴイズム)」と「超自我(スーパーエゴ)」と「自我(エゴ)」の三つの領域がある。日本人は、この三領域の葛藤関係について正しく理解していないらしい。「我」は、自己中心の本能的欲動のこと。イドともいう。「超自我」は、この欲動を抑制しつつ、道徳等に従って社会生活を営もうとする力の源泉。「自我」は、我(欲動)と超自我との葛藤をコントロールする力。人間が生きて行く上でこの自我はきわめて重要な領域である。宗教的な修行もある意味では、この自我を成熟させるために有効なものとしてとらえられそうだ。
 素裸で遊ぶ子をたしなめる大人は、こどもの欲動を抑制し、超自我を育成しようとしていることになる。ところが、は本能的な欲動だからこれを完全に封殺してしまうことは不可能である。乳幼児期から欲動を抑制し続けて「良い子」として育った者が、ふとした挫折などを契機としてそれを発動させ始めると(そういう人間は自我が殆ど育っていないから)我と超自我のコントロールが不能になり、良好に育成して来たはずの超自我をぶち壊してしまう。時には反社会的行動に走る。
 では、自我を育むためにはどうするか。やんちゃを言ったり、甘えたり、けんかをしたり……そういう子どもの欲動にもとづく喜怒哀楽を充分に保証し、子ども自身の判断で行動が出来るように温かい気持ちで見守ってやらねばならぬのである。フルヌードで天真爛漫に遊ぶ子は、欲動を存分に発散させて健全な自我を育む土台を形成していることになる。

 ところで、『正法眼蔵』有時の巻は、心の深層に潜む我と超自我と自我の三極構造が時間と共にダイナミックに変転して行く姿を精緻に考察していて驚かされる。

 「三頭八臂(さんずはっぴ)はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入(じきにゅう)して、千峯万峯をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂もすなわちわが有時にて一経す、彼方にあるに似たれども而今なり。丈六八尺もすなはちわが有時にて一経す、彼処にあるに似たれども而今なり。」

 ここでいう「三頭八臂」は不動や愛染などの明王像に特徴的な奇怪な形と忿怒の相をいう。降魔祈伏を任務とするのが明王だから言うなれば欲動と超自我との葛藤を象徴している。三頭八臂の忿怒の形相のすさまじさに対応するだけのエネルギーが欲動にはあるということだろう。
 一方「丈六八尺」は佛身のこと。釈尊である。古来、佛像の身長は一丈六尺とか八尺とかと伝承されていることによる。欲動と超自我の葛藤を自在にコントロールして、社会と調和しつつ融通無礙に生きることが出来る自我の象徴と受けとめておけばよかろうか。

 あえてこの一節を現代語訳する必要もなかろう。本能的な欲求を存分に発散させて遊ぶ幼少時期、或いは親や教師や社会に対して反抗をする時期、そういう発達の過程の重要さがここには示されている。さらに大人になってもそういう欲動は内面に温存されているのだと道元禅師は言われるのである。

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