「行雲流水」より
健康であれば
香川 芳子 (女子栄養大学学長)
私の尊敬する評論家で友人の吉沢久子さんにお会いすることがあります。吉沢さんは矍鑠(かくしゃく)たるもので、「女性は八十歳からが青春よ」といわれます。その理由は、自分が八十代なら両親の介護は終わっています。また、子供は一家を構え、夫も日本の平均寿命でいえば、その看取りをすませていることが多いのです。そして残された女性は一人暮らしで、自分で生活設計ができるから「青春よ」というわけです。
そんなことから思い出したのが、母・香川綾の日記です。最近、女子栄養大学に創立者の「香川昇三・綾記念展示室」が完成しましたが、その資料提供のため母が長年書きつづけていた「食事日記」を読みました。「食事日記」は毎食なにを、どれだけ食べたかを記入していくと、自分の栄養状態を知ることができ健康を維持できるというものです。その中の一九七八年の日記に、こんな感想が記されていました。
「・・・・・・両人の結婚式はまことにほほえましいものでした。四十八歳と二十七歳で、新婦の両親が渋られたとか。そんなことは長生きをすればなんでもない。
私の挨拶は、女の幸(さち)は家庭を幸せにすること。そして社会に開かれた仕事の中で生き甲斐のある働きをすること。この二つがつづけられることです」
こんな発想をするところが、学校を創立し、父の死後、一人で幾山河を越えた母らしいところです。このお二人の場合、例え夫が八十歳で亡くなったとしても、妻も八十歳まで健康であれば、二十一年間は自分のために生きることができるので、年齢の差なんて問題ではないと思ったのでしょう。母は九十八歳で亡くなりましたが、その半年前のメモには、
「年を数えてみて はあんと思うが
別にそれで年をとったとも思わない
その年のままで
何彼(なにか)とやってゆけばよいのだ」
と書いてありました。この言葉どおり最晩年の母は、時間や人間関係に拘束されることなく、聖書を読み、庭の草花を眺め、まるで自分の歩調に合わせるかのようにゆったりと過ごしていました。
もう一つの話は、私の従姉妹ですが、平成十二年十月に満九十歳で歌集を出版しました。きっかけは、八十八歳のころから目と耳が不自由になり、腸閉塞の手術もしたため、私に電話をかけてきても暗い話ばかりでした。そのとき考えたのは、私にできることはないだろうかということです。従姉妹は十八歳のころから短歌を詠み、与謝野晶子さんに個人的な指導も受け、閨秀歌人として注目されていました。しかし、長い間大学で教鞭をとり多忙のあまり、歌集が一冊しかありません。私は、そのことに気づき歌集を出版することにしました。
従姉妹は歌集の話が具体的になるとリハビリにも積極的になり、食欲も旺盛になりました。そればかりか、「歌集が完成するまでは死ねない」と意気盛んで、また歌への情熱がわいてきたのです。そして出版記念会も終わりましたが、最近病室を訪れてみると歌を詠んだり、ご近所のお年寄りの歌を添削したり、生き生きとしています。人間は希望を持つこと、例え入院中であっても食生活を大切にすることで、こんなにも生きる姿勢が変わるものかと驚いてしまいました。
八十歳からを青春にするためにも、その年のまま老後を楽しむにも、ボランティアをするにしても、一つだけいえるのは健康でなければ不可能だということです。
その基本は"食"にあります。食と健康の分野に関わる者として責任を痛感していますが、ではあなたの第二の青春は?と聞かれると、七十前の私にはまだ見当がつきません。
しかし人間は、そのときどきに役目を与えられているのではないでしょうか。もちろん、私は大学の仕事を最優先していますが、最近私が通う教会で、もう一つ建物を建てようという話があり、募金などもできるだけのことはやりますからと、その旗振りをしています。こうしたことができるのも息子は独立し、亡くなった夫や娘に感謝しながら、私の意志ひとつで決めることができるからでしょう。
趣味についていえば、私はカメラで教会の人達や学生のスナップ写真をとって差し上げていますが、両親宛ての手紙に写真を同封したり、本の顔写真に使ってくださる人もいて、自分史のお役に立っているようです。
リタイア後を第二の青春というなら、蘖(ひこばえ)のようなもの。蘖(ひこばえ)は伐った草木の根から新しく芽が出てくることをいいますが、根が元気でなければ育ちません。人間も同じです。楽しい青春にするには健康であることが条件です。私は年配の方にお会いすると「いつまでもお元気で」と、胸の内で祈るのが習いになっています。
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