月刊誌「在家佛教」のご紹介
 バックナンバー 

平成13年2月号から
平成13年2月号
目 次
ページ
表紙 中国・四川省 峨眉山 万年寺 編集部 撮影
ブッタの道(14)〔写真〕祇園精舎
4
禅者中村 文峰5

行雲流水
  『幸福の王子』と菩薩上村 勝彦6
  食べものと人格東 隆眞8
  浄福への道喜多川 忠一10
  恵心僧都の心小堀 光詮13

一佛教徒の覚悟<遺稿>井上 信一16
鈴木大拙の風光<座談><続>別宮 美穂子30
上田 閑照
金光 寿郎
一道を歩みつづけて 5
 凡夫を救いたまうご本願
大石 法夫42
金子大榮師に想う寺田 正勝50
慈悲に熟するときあるべし奈良 康明56
代ル者有ルコト無シ橋本 随暢68
日本の将来を憂う 3
 古人に支えられる今人
和田 隆52
日本佛教の流れ 18
 真言宗の僧達(二)益信・宇多法王
田村 晃祐"82
自然と生命の物語(2)上田 悟72
地獄の復権浜島 典彦70
加藤辧三郎・言葉抄 7編集部・抄録90
釈尊(弟子たちを伝道へ)〔詩〕二橋 すすむ95

 今月の表紙87
 在家佛教協会通信<インド七大佛蹟巡礼の旅・他>88
 編集後記97
 在家佛教講演会案内98
カット  杉本 順
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2月号より一部を抜粋します。
「行雲流水」より
『幸福の王子』と菩薩

上村 勝彦
(東京大学教授)

 特に理由があったわけではないが、最近、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』のことを思い出した。生前は「無憂宮」に住み、不幸なことは全く知らずに暮らし、「幸福な王子」と呼ばれた王子が、銅像となって、冬になっても町に居残ったツバメに頼み、不幸な人々のために宝石でできた自分の両眼などを取り出して運ばせるという周知の童話である。ワイルドはインドの佛教説話からこの童話の着想を得たと私は考えている。請願者のために自分の両眼を布施するという物語は、「シビ王」の物語としてパーリ語で書かれたジャータカ(釈迦の前世の物語)に伝わっている。また、不幸な人がいる限り自分も幸福にならないと言う菩薩の請願は、竜を救うために捨身するジームータヴァーハナの物語をはじめ、インドの多くの捨身説話に見られるところである。
 それにしても、『幸福な王子』は大昔に読んだので、正確な内容は忘れてしまった。この原稿を書くために、念のためにもう一度読み直してみたいと考えたが、この童話の日本語訳は大きな書店でもなかなか見つからなかった。そこで日本橋の丸善に電話したところ、原書があるということなので、さっそく購入した。ペンギン・ブックスの子供向けの叢書の中にあった。
 生前、王子は「快楽(pleasure)が幸福であるとしたら、確かに幸福であった。」しかし、今や銅像になって、高いところから見渡すと、悲惨な情景が厭でも目につき、それで王子は涙を流していた。エジプトに渡りそびれたツバメは、王子のために、剣の鞘についたルビー、サファイアでできた両眼、体にはった金箔を、困った人々に運ぶ。インドとの関係をうかがわせる箇所は、両眼となっている貴重なサファイアがインドから持ってこられたものだと言及されているところだけである。しかし、ワイルドはシビ王の捨身説話を知っていて、それをかなり直接的に取り入れたものと私は思う。両眼はシビ王も布施したが、それがインドからもたらされたとは暗示的ではないか。月並みな言い方だが、『サロメ』や『ドリアン・グレイの画像』で悪徳の極みを描いたワイルドが、同時にこのような絶対に純粋な善の存在を知り得て、作品にしたということは、まことに驚嘆すべきことである。
 もう冬で、ツバメは早くエジプトに渡りたいのではあるが、幸福な王子の悲しそうな様子を見て、自分も悲しくなる。
 「しかし幸福な王子は非常に悲しそうに見えたので、小さなツバメも悲しくなった。」
 そしてつい王子の頼みを引き受け、最後には凍え死ぬこととなるのである。しかし、病気の息子を抱える貧しい女のためにルビーをとどけたツバメは、王子のもとにもどって報告してから、「不思議なことに、今、ぼくはとても暖かいと感じている。とても寒いのに」と言う。それに対し、王子は「よいことをしたからだよ」と答える。
 ワイルドは知っていたにちがいない。幸福にせよ不幸にせよ、他者の気持がこちらに伝わるということを。またこちらの気持も他者に伝わるということを。世の中には、自分さえよければ他人はどうでもよいと思う人がいる。また、そう思っていると言わないでも、自分でも意識しないでも、いざとなると自己中心的な行動をする人がいる。そういう人たちは、世の中で自分だけが幸せになれるはずはないということを知らないのである。
 たとえば、我々自身が幸せであっても、自分の親や妻子や兄弟や大事に思う人が不幸になれば、我々はもはや幸せでなくなることは当然であろう。また、自分が憎いと思う人が不幸になればよいと考える人がいるかもしれないが、そのような相手は不幸になればこちらを恨む。恨まれれば自分も調子を乱すものである。昔は怨霊とか生霊に悩まされ、病気になったり死んだりする人が多かった。電灯もなく、真っ暗な闇の中で、恨まれた人はさぞかし恐ろしかったであろう。しかし、現代でも怨霊や生霊は活躍している。好きでも嫌いでもない人の場合でも、調子を乱した人に会ったり、電話で話したりすると、こちらも調子を乱すものである。
 実はすべての人々はつながっている。何かの縁でチャンネルが通じると同調するのである。幸福な王子は、不幸な人を見てしまうと自分も不幸になる。相手の不幸に同調するのである。とらわれのない純粋な人々のみがそのことを身体で感じる。捨身説話の菩薩も、この世に不幸な人がいる限り自分は幸福になれないと感じる。ワイルドもこの感じがわかったからこそ、『幸福な王子』という作品を書いたのであろう。

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