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◆ バックナンバー ◆
| 平成13年1月号から | ||
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| 目 次 | ページ | |
| 表紙 中国・四川省成都の文殊院 編集部 撮影 | ||
| ブッタの道(13)〔写真〕ガンジスの渡し | 4 | |
| 自誡 | 小林 隆彰 | 5 |
| 行雲流水 | ||
| 老後の初心 | 脇本 平也 | 6 |
| 「回る」ということ。 | 辰濃 和男 | 8 |
| 夭折の画家 | 福田 陸太郎 | 11 |
| 佛教学による佛教の発見 | 下田 正弘 | 13 |
| 鈴木大拙の風光<座談> | 別宮 美穂子 | 16 |
| 上田 閑照 | ||
| 金光 寿郎 | ||
| 大拙先生を顧みて | 古田 紹欽 | 30 |
| 一道を歩みつづけて 4 凡夫の自覚 | 大石 法夫 | 46 |
| 報恩になる(下) | 坂東 性純 | 34 |
| 生・病・老・死と自分史 | 真野 龍海 | 58 |
| 「サムスィング・グレイト」に目覚めるとき | 一島 正真 | 63 |
| 日本の将来を憂う 2 甘美な子供観を捨てよ | 和田 隆 | 53 |
| 玄裝三蔵法師 10 二律背反の心 | 山田 法胤 | 75 |
| 日本佛教の流れ 17 真言の僧達(一)聖宝 | 田村 晃祐 | 70 |
| 自然と生命の物語(1) | 上田 悟 | 78 |
| 人間にくずはいない | 笠 伊次郎 | 56 |
| 己が身に引きくらべる | 高橋 堯英 | 68 |
| 四つの信条〔大手町だより〕 | 武藤 義一 | 33 |
| 加藤辨三郎・言葉抄 6 | 編集部・抄録 | 88 |
| 釈尊(インドの雨季)〔詩〕 | 二橋 すすむ | 91 |
| 今月の表紙 | 87 | |
| 協会催し物案内<インド七大佛蹟巡礼の旅> | 96 | |
| 編集後記 | 97 | |
| 在家佛教講演会案内 | 98 | |
| カット 杉本 順 | ||
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| 1月号より一部を抜粋します。 |
| 「行雲流水」より 「回る」ということ。
辰濃 和男 (エッセイスト)
ご承知のように四国八十八か所をつなぐ線は円環です。香川の八十八番大窪寺で結願になり、それから徳島の一番霊山寺まで歩いてお礼参りをする。八十八番と一番を結ぶことで、四国の寺々は見事な円環をつくることになります。円環のよさは、たとえば香川や愛媛のどの寺から歩き始めてもいいし、あるいは、逆打ち(逆回り)でもいいという融通無碍な歩き方が可能なことでしょうか。 四国を回ってみて、回るということの意味を考えてみました。回るという動詞は、円環に沿ってぐるぐる回遊することで、従って、生きている限り果てることのない旅です。愛媛の八坂寺で、八十八か所を四十何回か歩き続けているという七十歳すぎの女性に会いましたが、昔はそうやって何回も繰り返して歩き、ついに倒れて死んでいったお遍路さんがさぞ多かったことでしょう。 遍路を人生にたとえる人がいます。厳しい山道がある。午後の光を浴びてひろがる海を見ながら歩く道もある。自分の限界を突き破って歩き終えることもあれば、歩くことをたのしみ、こころを開放させて自然に溶け込むときもあります。そうかと思うと、国道のおびただしい数の自動車の騒音と排ガスのなかを歩く。ときにはまた、土地の人びとのお接待に頭を垂れ、感謝するということの大切さを改めて教えていただく。人生の苦楽哀歓が、四国路には凝縮されています。千五百キロの道は、人の一生の道のりでもあります。 今度の旅は雨のなかを歩くことの多い旅でした。足摺岬の三十八番金剛福寺へ行くときは春の嵐でした。風速二十メートルを越す風にあおられ、よろめきながら歩く。雨具はもはや役に立たず、雨が体にしみこんで肌から体熱を奪います。寒さにふるえながら、バスの停留所の小屋で握り飯を食べてカロリーを補給しました。寺に着いたときは「よみがえった」という感覚がありました。「浄行」というのか、激しい雨が心身の穢れを清めてくれたという感じがありました。 雨のなかを歩いていると、こころが内に向いてゆきます。石鎚山に登ったときも雨でした。怒濤のような風のうなり声が霊峰に響くなかで、昔の修験者の厳しい修行のさまをほんの少しは追体験することができました。八十二番の根香寺へ行く山道も雨でしたが、寺に着き、般若心経をあげているうちに、異様な静かさに包まれた感覚がありました。遠くの雨垂れがやさしく聴こえてくる。木々の葉にあたる雨の声が聴こえてくる。その静かさのなかをただよいながら「法悦」というのはこんな感じのものなのかと長い間、立ちつくしていたのを覚えています。雨がもたらしてくれた法悦です。 八十八番の大窪寺へ行くのに女体山を越えましたが、この日も雨で、かなりの難行でした。心臓が悲鳴をあげる。足が重くなる。次第に岩肌が多くなり、四つん這いで登るのですが、雨に濡れた岩は滑りやすく、何回か転びました。いままでの人生で、何回もこういう目にあい、こころが砕けそうになりながらも、そのたびに何かを学んで生きてきたのだという思いがありました。そのうちに、人生もまた「回る」ことの繰り返しなのだという思いにつきあたります。人は生から死まで一直線に生きるのではなくて、ぐるぐると回って生きる。らせん状の道を次第にのぼってゆく場合もあれば、逆に下る場合もある。ひと回りを一月、あるいは一年、十年と考えてもいい。修行を続ければ、らせん円環はだんだん上にのぼってゆくことになる。お遍路はそのことを教えてくれました。 人生と遍路の違いは、人生がたった一度なのに対して、遍路の体験は何回も何十回も可能だということだ、と思っていましたが、四国を回る体験のなかでその思いが変わりました。人生もまた、らせん状の円環なのです。お遍路の繰り返しが可能なように、人生の繰り返しも可能なのです。 私は四十四歳のときに一度お遍路をし、こんどはいわゆる「区切り打ち」で二回目のお遍路をしました。たぶん生きている限り、遍路のらせん状の円環を三回、四回と歩き続けることになるでしょう。この前のお遍路よりも、こんどはよりよいお遍路でありたいと願って歩く。実人生でも、同じです。次の円環はよりよいものであることをと願いながら、らせん状の道を回り続けるのです。 |
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