月刊誌「在家佛教」のご紹介
 パドマ 在家佛教 臨時増刊号 

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パドマ 在家佛教 臨時増刊号
目 次
ページ
―――限りある命を生きる―――
表紙 ヒマラヤの聳える村藤江 幾太郎 絵
口絵 釈尊八相図丸山  勇 撮影
冬の性(詩)ニ橋 すすむ36
梅雨(詩)
110
光り(詩)
138
タクラムカン砂漠で(詩)
178
甘露の門は開く(詩)
202
心澄む小島 寅雄32
限りある命を生きる室生 朝子76

あたたかな心中村  元3
悲涙を戴く高  史明15
無限の求道者鎌田 茂雄23
いのちを賜る竹下  哲39
人が人となる道西川 玄苔47
生死をこえて自然に生きる川畑 愛義67
真実の人生西村 恵信81
限りある命を生きる大須賀発蔵91
いのちを生きる余語 翠巌113
若木 重敏129

無礙の一道金子 大榮56
脳死における生と死村尾  勉60
命の不思議加藤辨三郎104
願われていた私貞包 哲朗124
花が身を焼く絵蝋燭大下 一真172

佛教とは何か田丸 徳善143
孤独の深さ岩本 泰波159
人生の覚者前田 專學181
佛教と現代玉城康四郎205
玄奘の風景文・絵  菅原  篤100
口絵解説内藤喜八郎12
カット   杉本 順

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(パドマより一部を抜粋します)
あたたかな心

中村 元

 人生の問題に人が思い悩むようになりますのは、なにかにつまずくとか、苦しみに出あうとか、思うにまかせぬ出来事があったとかという場合が多いと思います。
 健康で、何不自由なく、たのしくくらしている人は、自分を深く反省して思い悩むということは少ないでしょう。やはり何かの点で自分の意にまかせぬものがあって、反省を迫られるのが、多くの人びとの生きるすがたではないで しょうか。
 思うままにならないことをサンスクリットではドゥフカともうします。それを漢訳佛典では苦と訳していますが、苦は、苦痛だけではありません。人間が病気になったり傷ついたときの苦痛のほかに、この人生には思うにまかせぬこ とがたくさんあります。それらをすべて含めて苦といっているのです。
 この思うにまかせぬ人生にどう対処したらよいかということが、釈尊の出発点でした。また釈尊に帰依した人びとが問題としたところであったと思います。
 釈尊は中部ネパールのシャカ族の王子で、世間的には何不自由のない方でした。
 しかし、近くにコーサラという大国があり、やがてコーサラ国の将軍にシャカ族は滅ぼされてしまいますが、そういう不吉な運命も予感しておられたと思います。そのほか人生の問題として、生・老・病・死ということがあります。生まれることは、当人にとってはよろこばしいことでしょうが、母親や近親に、苦悩をもたらす場合があります。さらに人間は成長するのはよろこびですが、やがては老いる。そして最後には死が待っています。
 そのほかに自分の好ましいものが得られないとか、自分の愛する人とは別れなければならないとか、嫌な人に出会うとか、いろいろな人生の悩みがあります。
 要するにわれわれの存在は、たのしいようにみえても、なにか思わぬところで、苦しみにまつわられている、そういう反省があったわけで、そこからのがれる道を求めて、釈尊は出家したといわれています。
 では、どうしたらこの苦からのがれられるか。人間は、自然界に生きていますから、物理的、生理的には、自然界の法則にしたがっています。そこから逃げることはできません。たとえば、病いは、あるていど手段を講じ予防すれば 防ぐことはできますが、老いと死は、のがれることはできません。
 こののがれられないものにたいしては、それをそのまま受け入れ、いただくほかに道はないのです。
 人間には、どうにもならないものと、また意志のもち方によってはどうにかなる面と、両方あります。その両方をありがたくいただけば、生きていることがありがたくなり、毎日を感謝してくらすことができるとおもうのです。

(以下、紙面の都合で省略させていただきます。)

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