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2018年6月掲載

自然科学と佛教(3−2) 武藤 義一

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古代の自然哲学を脱却して近代の科学が成立した一つの基礎は、実験を重んじたことである。われわれが自然科学の研究を行っているときは、いろいろの予想のもとに観察なり実験なりを進める。しかし、この予想は当たらぬことの方が多い。むしろ、この予想の裏切られたことによって、科学が進歩したとも言えるほどである。従って、実験や観察の結果を正しく書き記すことが科学の第一歩である。しかし、事実の記録にだけ没頭(ぼっとう)するのでは、科学の目的は達せられないことは勿論である。正確な実験や観察の結果を基礎として、充分に思考するのでなければ法則は見出されない。真理探究への努力を一点に集注(しゅうちゅう)し、学理を念じつゝ、正しき思考を行うのでなければ、科学の研究は遂行できない。この態度が正念(しょうねん)と正思(しょうし)惟(い)であると思う。

フランスの著名な化学者ジョルジュ・ユルバン(1872-1938)は近世における最大の化学者の一人であって、永くソルボンヌ大学教授として研究を続け、学士院会員にも列せられたが、その研究は稀(き)土類(どるい)の分離であった。
この稀(き)土類(どるい)という名前は、一般の方(かた)には始めてゞあろうし、また自然科学者でも、化学者以外にはあまり縁のないものである。最近、原子力時代になってから新しい元素がいろいろと発見されているが、それまではすべての物質は92種類の元素から成っているとされていたのである。この92種類の元素には、金・銀・銅・鉄のようなものや、酸素・水素のようなものなどいろいろあるが、たいていは良く区別のつくものである。しかるにその中に、原子の構造が極めてよく似ているため、ほとんど区別のつかないものが十数個あって、他の研究からそういうものの存在することは見当がつけられたが、これを化学的に分離して取出すことは甚だ困難であった。この一群の元素を稀土類と呼んでいるが、ユルバンは敢えてこの困難にぶつかって、稀土類の化学的分離に着手したのであった。

この研究は、適当な薬品に溶(と)かしては再結晶させるという操作(そうさ)をくり返すのであるが、稀土類を完全に分離さすためには、この操作を数千回から二万回にまで及ぶことが要求されたのであった。ユルバンはこの地味で忍耐を要する研究を、実に25年間にわたって続けた人である。その結果として、ガドリニウム・テルビウムその他の稀土類を純粋にとり出し、そのくわしい性質を知ることができたのであったが、しかもその際、いろいろの新しい現象を見出すと同時に遂に新元素のルテシウムを発見したのであった。しかし、この輝かしい結果を得られたのは、ただ根気強く実験したためではなくして、彼が充分に思考したためにほかならない。しかも、25年間にわたって、一意その研究に専心したのは、人類に未知な真理に対するあこがれと、その研究に努力を集注せんがためであったことは、彼自らが語っているところである。してみると、ユルバンの業績はまったく彼の正念、正思惟によると考えて差支えないことになる。

おそらくユルバン自身は、八正道をしらなかったろうと思われるが、優れた人の行動は自ら真理に通じていることは論をまたない。彼の行動によって、佛教の理を示すことは、少しも差支えないと思う。元来佛教の主張には、佛教の教理であるから即ち真理であるとするよりは、むしろ普遍的な真理が即ち佛教であるとしている面が強いのであるから。

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終戦後の食糧難に悩まされたわれわれは、肥料への関心(かんしん)が嵩まり、硫安(りゅうあん)の名前はあまねく知られるに至った。硫安はすでに御承知の方も多いと思うが、大工場で空気中の窒素(ちっそ)を利用して製造されるものである。この製造が可能であることを見出したのはドイツの化学者フリッツ・ハーバー(1868-1934)であるが、彼は化学のすべての領域(りょういき)にわたって多くの貢献(こうけん)をなした学者であって、いかなる事柄に対しても徹底的に研究し思索した人である。ハーバーが最も嫌ったのは怠惰(たいだ)であったと伝えらえるほど、彼は常に休みなく科学に精進したのであって、各地に旅行した際も常に研究問題の探究に心掛けたために、自然美などにはさして感興が湧かなかったということである。

自然科学の研究に限らぬことであろうが、すべて事をなすには全身心をつくして没頭し、最善の努力を払うべきは言うまでもない。ハーバーやユルバンの例を見るまでもなく、秀れた科学者にして真理探究のために精進しなかったものがあろうか。いやしくも真理を求める者は、正(しょう)精進(しょうじん)を旨としなければならぬことは自明の理である。しかし、こゝで注意しなければならぬことは、理想に向かって精進するのでなければ、その努力も結局は無意味であって徒労(とろう)に終るということである。必ず正見に基いて努力精進を重ねなくてはならない。かくするならば、自ら正業(しょうぎょう)・正(しょう)命(みょう)が日常の生活に具現してゆく筈である。

正業は慈悲心を根本として正しい行為をなすことであり、正命は正しい職業によって正しい生活を送ることである。真理探究を目的とする研究者は、邪念を退け、名利を離れ、虚心坦懐(きょしんたんかい)に自然に対して、純真に邁進(まいしん)しなければならぬことは言うまでもない。従ってそのような環境にあり得るような地味な職業を選び、正しき家庭生活を送り、不必要な邪念や紛争に心身が労せられることのないようにすべきであろう。きわめて優(すぐ)れた人ならば、どのような境遇にあっても、この理想を達成することが可能かもしれぬ。しかし万人にそれを望むのは無理である。やはり、われわれとしては、先づ自分の身のまわりを正しくしておくことが大切であると信ずる。

孤立した研究者にして、その成果をまったく人に知らせない場合ならばいざ知らず、そうでない者にとっては、研究成果の発表に関しては、偽らずに正しく語ることが最も基本的な事柄である。しかも現今では、成果を公表するものでなければ研究とは見做(みな)されないのが一般の常識であるし、またそうでなければ人類に何等の貢献をなすことも出来ないことになる。従って正語の大切なことは言をまたない。

ドイツのオットー・ハーン(1879生)は、放射性(ほうしゃせい)元素の研究に従事していた優れた化学者であるが、近年に至ってストラスマンその他の共同研究者と共にウラニウムの人工変換について多くの実験を行い、数年間にわたって学界に多くの自説を発表していた人である。ところで、元素は従来は不変なものと考えられていたが、ラザフォードなどの研究によって、人工的に、他の元素に変換されることが見出されたものである。そして元素の性質を示すために、その化学的の性質を主として表わす原子番号と、その重さを表わす質量番号とを用いており、同じ原子番号でも質量番号の異なるものも存在し、それらを同位元素と呼んでいる。たとえば天然に産出する最大の元素はウラニウムで、原子番号は92であるが、これには安定な同位元素が二種類あって、その質量番号は235と238である。このウラニウム235が原子爆弾として用いられたものである。

さて、話は前にもどり、ハーンらの元素の人工変換に関する研究の結果、元素の変換に際しては、元素番号が二つ減った元素に変るか、あるいは原子番号が一つ増した元素に変るかのいずれかであることが明らかになった。しかるに、ハーンがこの説を数年間にわたって発表した後に、ウラニウムより原子番号が一つ増した新元素を生ずることを予想して実験を行ったところが、その予想を裏切ってウラニウムの原子番号の半分ほどの元素が生成し、あたかもウラニウムが真二つに割れたようなことになった。

ハーンらは初めはこれを疑問としたが、精密に化学分析を行った結果、その事実であることが確かめられた。このことは核分裂(かくぶんれつ)と呼ばれる現象であって、その際に驚くべき多量のエネルギーが放出されるのである。ハーンはこのことを知った時に既に六十歳を越した高齢であるにもかかわらず、在来の自分の面子(めんつ)に少しも拘泥(こうでい)することなく、曾て数年にわたって発表した自説を惜しげもなく捨てゝ、この新事実を発表したのであった。このことは科学者として当然のことではあろうが、なかなか常人ではなし得ぬところであって、その態度は深く学界の敬服を齎(もたら)したのであった。この核分裂(かくぶんれつ)の発表が原子爆弾の発明の動機であるから、その功績はまことに大なるものである。ちなみにこの発見によって、ハーンは1944年度のノーベル化学賞を授けられたのであった。

われわれはこゝでも再び、正見・正思惟・正語・正精進・正念の実践によって真理を見出した者の例を見た。さらに今まで挙(あ)げた科学者は、いずれも研究三昧(ざんまい)を楽しむの境地に達せられておったようである。このことは、正定(しょうじょう)として教えられている。このように考えてくると、科学者たるの道は八正道の実践にありとすることができよう。

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