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2018年4月掲載

自然科学と佛教(2ー3) 武藤 義一

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ハイゼンベルグはこのように考えて電子などの運動を調べるとき、位置と速さとを同時に正確に測ろうとすることは、原理上不可能であることを明らかにした。すなわち位置と速さのうち、どちらかを正確に測ったとすると、他の量は不確定となることを意味する。この関係を『ハイゼンベルグの不確定性原理』と呼んでいる。またこの位置と速さのような関係にある量を『互に相補的である』と言っている。今までは科学技術が進歩すれば、それにつれていくらでも測定が厳密に行えるようになるものと信じられていた。ところが、この新しい原理の発見によって、どんなに観測の技術が進歩しても、ミクロ的現象に関しては、相補的の関係にある量は同時には原理上知られてはならないことになった。これは観測者が人間である以上は、ミクロ的現象に関しては、昔のように全く第三者的立場を取ることが、本質上できないものであることを反省した結果として、発見されたものとも云えるのであろう。

この不確定性原理の発見によって、どのような思想上の変化が齎らされたであろうか。今世紀の初めまでの考え方は、物理報告として絶対的な一義的な因果律の成立を疑うものはなかった。すなわち、ある現象があって、その時間的空間的の状態を完全に観測して定めたとすると、その現象の将来のことはすべて一義的に定まるのであった。たとえ現在まで知られている物理法則の式で解いてあてはまらなくても、それは未だ科学が進歩しないためであって、将来科学が発達すれば、完全に一義的に定めうることを確信していたのであった。すなわち従来は、この自然法則というものは、われわれ人間の感覚器官によって観測し測定して得られるある量と量の間に一義的に定められた関係でもあるように考えられ、これを因果律と呼んでいたのである。かかる因果律が自然法則であるとしたならば、現在の状態によって未来のことがらは全部定まるのであるから、過去・現在の現象を土台として、充分に科学が進歩した暁においては、未来の現象を全部予言できることになる。だからその反面において、われわれは宿命論的傾向に陥らざるを得ない。したがって、人間の自由意志の問題についても、深刻な疑問を生ぜざるを得なかったのである。

しかるに、不確定性原理の発見によって、いま述べたような観測された結果の間に、一義的に存するとされる因果律は、マクロ的現象にしか適用されない。ミクロ的現象に関しては、このような因果律の成立し得ぬことが示された。すなわち、ミクロ的現象に関しては個々の現象の観測結果の間には、一義的な因果関係を認めるわけにはゆかなくなったのである。しかし、注意しなければならないことは、原因と結果に関してまったく法則性が存せず、でたらめなものであるかというに決してそうではない。やはりある法則性に存している。ただ従来のように一義的定まるものでなく、確率を以て言い表さなければならなくなったことである。すなわち個々の現象に偶然性を認めざるを得なくなったのである。しかし全体として見るときには、そこに必然的法則性が厳として存している。しかも個々の現象に偶然性を認めるといっても、その不確定さの間には、やはり法則性が存する。ある状態がどのような量で表せるかは、一定の法則によって統計的に示し得る。従ってわれわれが、マクロ的現象を取扱うときにニュートンの運動方程式を解くように、ミクロ現象を取扱うときに、例えばシュレディンガーの波動方程式を解くことによって、電子や原子について論じ得るものである。かかる根拠の下に成立したものが、量子力学である。

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われわれの実際に経験する世界、すなわちわれわれの感覚器官の対象となる世界は、マクロ的世界である。ミクロ的現象は、われわれは直接には知覚し得ない。けれどもマクロ的世界は、それ自身で完結したものではない。その背景に多くのミクロ的世界が存在し、その裏付けをしていると考えるべきである。たとえばここに10円という金があるとき、5円札2枚のときもあるし、1円札10枚のときもある。で、その一々の場合がミクロ的世界に相当し、10円というときが、マクロ的世界に相当することになる。したがって一般的には、マクロ的世界について考察すれば、事足りるかも知れない。しかし宇宙の本質を論ずるためには、ミクロ的世界に成立する自然法則を確かめることの必要なことは、言うまでもないことであると思う。

その場合に個別的に偶然性・不確実性があっても、自然全体として見るときには、統計的必然性と客観的法則性の存することをはっきりと知ったのである。かかる自然の法則性が、佛教の因果の道理といわれるものに対比すべきものであろうと信ずる。さらに個々の現象に関する不確定性の存することは、われわれをして宿命論に陥ることを防いでくれるものではないだろうか。湯川博士も人間の自由意志の根拠をここに求めておられるが、誠に卓見であると思う。この辺の消息をよく知ることは、禅のいわゆる『不昧(ふまい)因果(いんが)、不落(ふらく)因果(いんが)』の参究に資するところがあるのでなかろうか。このことに関して、諸賢のご教示を承れれば、この上ない幸いである。

さてわれわれ人間は、未来の事柄は感覚器官によっては知り得ない存在である。我々の経験は、すべて過去のものであることは誰も否定し得ぬ。しかし毎日の生活を送ってゆくには、何等かの形で、未来の事を発見することなしには済まされぬ。多くの人は、意識していると否とにかかわらず、そのようにして暮らしているわけである。しからば、その未来の予測の根拠は何であろうか。大多数の人は、過去の幾多の経験から帰納した法則性を確信して、それによって将来を予見しているのであろう。中にはまったく何者かの『お告げ』に導かれて、行動するものもあるかも知れない。それらは迷信に基くものも多いと思うし、また常軌を逸し勝ちであって、到底正しき人生を送り得るとは思えない。

このように自然の法則性の確信が、未来の出来事の予見に対する確信ともなるのである。その確信の度は、科学的知識が広く深くなるにつれて、ますます深められることは否定できない。しからば科学が無限に進歩してゆけば、その確信がほとんど確実なものとなって、未来の予見が予見でなくなるのであろうか。今世紀始頭までは、そう考えていたのである。しかるに、量子力学的世界像を知るに至ったわれわれは、この問題に一石を投じた。その未来の予見の確実性についても、原理上として今後どれほど科学が進歩しても、人間は自己の未来の予知に関して、常にある不安が存していることをよく認識しなければならない。したがって不安なく日々の生活を送るには、科学的方法にのみ頼っては不可能であることが、現代の進歩した科学によって改めて人間に知らされた。このことを考えると、まことに感慨深いものがある。

かかる不安の念を解消せんとして、神に救いを求めた。しかし人格神の存在と自然科学的世界観との矛盾に悩んだ例が、特に西洋には多いと聞いている。

われわれは、ここで改めて、神なくしてかかる安穏の途を得べきことを教え給いし釈尊に、深く感謝しなければならないことを、しみじみ感ずる。

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最後に以上の物質観によって、われわれ人間自体がどのように扱われるべきかを考察しなければならない。自然科学的に考えたときは、人間もやはり物質的にみるから、各人を最終単位とは考えない。いろいろな化合物が、複雑に集合したものと見做すことになる。したがって極端にいうならば、人間も自然界に多数存する『物』の一種である。多くの分子や原子から成立しているものであって、それらはさらに、素粒子にまで分析することができるであろう。それであるから、人間に関しても、物理的や化学的の方法によって研究することも当然なことである。けれども、そのようにして人間の本質、すなわち生命現象を把握し得るであろうか。従来の科学では、ややもすればそのようにして把握することが可能であるとする傾向がある。科学万能の思想も、したがって生じたわけである。けれども、物理的化学的方法によって、果たして生命現象が解明し得るかについて、いろいろと反省が行われた結果として、最近には『否』とする暗示が与えられ始めた。

その一つの例は、量子力学の建設に大功のある有名なニールス・ボーア博士や、されにヨルダン博士などによって示された。それは、前に不確定性原理によって、速さと位置が相補的関係にあるのと同様に、物理的化学的に生物をみる観方と、生物学的観方とが、相補的関係にあるものではなかろうかということである。それによると、生命現象を解明するためには、生物のいろいろの器官について、物理的化学的研究を常に行わなければならぬことは当然である。が、研究の対象が次第に細かい部分に及ぶと、ミクロ的世界に近づくから、観測することによってその現象が妨げられるにいたる筈である。そのため物理的化学的立場から出来るだけ完全な観測をするためには、その観測の影響によって、必然的にその生物を死に至らしめるであろう。そこにこの方法の本質的な極限が存することを認めなければならない。それゆえ、生命の存在は、生物現象における一つの与えられた事実としてこれを認むべきである。物理的化学的方法、すなわち現今の自然科学的方法によって研究し、自然科学的観念をもって生命の起源やその本質を説明することは、ついに不可能なことであるといわなければならない。

さらに人間の行動を研究するときに、マクロ的に扱うべきか、ミクロ的に扱うべきかが、問題となってくる。われわれの身体は、無数ともいうべき分子・原子から成っている。その数は、他の動物乃至は無生物である土や岩でも、人間に匹敵すると考えられるものがいくらでもある。けれども、土や岩と人間とは、その行動がまるで比較にならない。特に著しい相違は、人間は身体の一部分に生じたわずかの変化に応じて、全体的に非常なる変化を来たすであろう。たとえば、眼の網膜上の極めて小部分に光が当ることによって、ある変化が生ずる。または耳の鼓膜に僅かな振動を感ずることによって、身体全体が大きな運動をすることは日常生活で常に経験するところである。したがって、ミクロ的か、若しくはミクロ的に準ずる部分に生じた変化によって、マクロ的世界たるわれわれが行動することと見て差支えなかろう。このことは、われわれが極めて微量の青酸カリを飲むことによって直ちに死に至るとか、室温が二、三度違うことによって仕事する能率が相違するとか、さらには体温が2、3度も上昇すれば、正常の機能が失われてしまうことによっても理解し得ることと思う。

われわれの行動を自然科学的に正確に記述するためには、ミクロ的現象を取扱うのと同じ態度をとることが要求されることになる。しかし、その取扱いは前にも説明したように、それぞれの個々の観測した結果の間には一義的な因果律が最早や成立しなくて、多数を取扱ったときに統計的な因果律が成立するだけの範囲内で扱わねばならない。日常普通にくり返されている事柄とか、多くの人に共通な極めて平凡な事柄については、このような統計的な因果律の適用だけではすまされることも多いのであろう。われわれが常識と呼んでいることは、まさにこの範囲内のものと言うことができる。

けれどもわれわれが真に必要とするのは、ある特殊の事情のときにどうなるかということであろう。そうなると、統計的な法則では解決に何等資するところがないとも言える。したがって、われわれの行動に関しては、現今の自然科学的方法を以てしては、いかにそれが進歩発達しても、究極的な解決は与えてくれそうにもないということになる。

ここにおいてこれを解決するためには、われわれの心の在り方を直接内観すること以外にないことを悟るであろう。このことが既に三千年前に、人類に懇切に教えられていることについては、いまさら言を要しないのである。

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