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2018年3月掲載

自然科学と佛教(2ー2) 武藤 義一

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極微説は、哲学的思弁から生じた仮説に過ぎない。そして、それと同様な体系で成立した近世化学における原子説が、やはり仮説ではあっても、実験的事実を説明するためのものであったのは、そこに大いなる相違がある。われわれの眼に触れる物質は、形といい色といい大きさといい、実に千差万別である。

それらを細分してゆくときに、その物質を成り立たせている本体に至ると考えて、これを『分子』と名付けた。さらにこの分子は、不変のものであるかどうかを考えて、たとえば石炭を燃やすと煙と灰になるし、また水を電気分解すると酸素と水素に分れるなどの実験的事実から、その分子が『原子』より成っているものと考えた。

このように、物質を形成する究極の単位を原子と考え、無数の原子の結合の仕方が種々あるために、千差万別の物質が存在するとしたのが近世の原子説であった。しかるにその後になって、科学技術の進歩にともなって、原子がそれ以上は分割できない最終単位であると考えることの誤りであることが、明らかとなった。これは真空放電の研究、レントゲン線の発見、ラヂウムのような放射性物質の発見などが動機となって、研究された結果である。原子は電子と原子核とからできており、さらに原子核は陽子、中性子などから成り立っていることがわかった。この電子・陽子・中性子が物質界の最終単位とされて、これらを一般に素粒子と呼んでいる。素粒子には、このほかに、湯川博士の発見された中間子や、宇宙船などに見出される陽電子・陰子・光子などが知られている。以上の事実は、いずれも、19世紀末期から急速に発展した物理学が、われわれに知らせてくれた事柄である。

近代に至るまで、永久不変の存在としていた原子は、その構造が論ぜられるに至り、さらに放射性物質の発見などによって、他のものに変わり得るものであることがわかった。今日では、元素を人工的に、他の元素に転換できるものであることが最早や常識的の事実となっている。然らば、素粒子は恒常不変なものであるかといえば、決してそうではない。たとえば中間子などは、短時間内に、他の種類の素粒子に変ってしまうものである。それ以外の素粒子についても、恒常と考えられない。したがって、われわれは物質を細分して究極に達したときに、本質的な実質を認めることが困難であり、また永久不変な存在を認め得ない。われわれの対象として存するものは、その瞬間々々にそれらが互いに相関連して示す相に他ならぬことになる。自然界のこのような状態は、佛教の『諸行無常・諸法無我』あるいは『縁起』の思想と、共通するものである。

自然科学者はこのような事実を見極めることによって、われわれの現実の人生の姿も、まさにこのようなものであるとの認識に到達する筈である。佛教の入門に、かくのごとき方法のあることも、佛教者の側でよく理解し、むしろ積極的に利用すべきではなかろうか。

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以上のように、原子の構造を探究してゆくにつれて、その研究の方法自体に対して、深刻な反省がなされた。その結果として、量子力学と呼ばれる新しい物理学が誕生したのである。深き反省なくして進歩も発達もあり得ぬことは、自然科学においても同様である。

物理学や化学の取扱う自然現象は、マクロ的現象と、ミクロ的現象に大別して考えることができよう。ミクロ的現象というのは、物質を形造っている原子や電子などの一つ一つが、直接に関連している現象のことである。それはわれわれが、直接には観測できないものである。われわれが直接に経験できる現象は、非常に多くの原子なり電子なりが、いろいろに動いていても、結局全体として影響を及ぼしているような場合だけである。たとえ顕微鏡などで見たとしても、電子などの個々の及ぼす影響は知ることはできないで、極めて多数個の作用の平均的なものがあらわれているのを認めることになる。これを、マクロ的現象と呼んでいる。しかし、この両者を厳密に区分することは、勿論できないことで、いろいろの中間的な現象もある筈である。

さてわれわれは、ミクロ的現象は直接に観測できないのであるから、それを研究するときには、適当な手段でマクロ的現象に変えてから観測しなければならなくなる。そのために、スペクトルの研究をしたり、レントゲン線やガイガー計数管などを用いたりすることは、人のよく知るところである。しかるに、ミクロ的現象を研究してゆくうちに、19世紀末期までに知られたいろいろの物理的法則が、そのまま成立しているかどうかが疑問とされるにいたった。

たとえば、ある一個の電子の、運動の有様を研究しようとする。そのために、 電子に光を当て、反射された光を、レンズに集めて見なければならない。このとき、もし電子の位置を知りたいときは、レンズの焦点に適当な物差(ものさし)を置けばよい。また速さを知るためには、すこし厄介であるが、その速さに相当するだけ衝突した光の運動量が変ることを利用して、その光がレンズに当ったとき、レンズが動き得るようにしておくと、そのためにレンズの焦点が動くから、像がぼやけて、電子の位置を決めることができなくなる。そのために、像がぼやけぬようにレンズを固定すると、電子の速さが測れないことになる。このようにして、電子の位置と速さの両方を、同時に正確に知ることはできないことになった。それならば、その原因はどこにあるかを考えると、電子に光を当てたときに、電子の速さに相当して、光の運動量が変ることにあるのである。 

一体、光の本体は何であるかは久しい疑問であったが、光子と呼んでいる極めて微少な粒子であることが明らかになった。且つ、それが波状の路を通って空間を伝わるために、従来は波の性質だけが知られておったわけである。ところが電子は、その速さやエネルギーがほゞこの光子に匹敵するものであるために、問題がややこしくなるのである。

今、暗がりの中に或る物体があるとき、ボールを投げつけて、その在りかを知るような実験をしたとしよう。勿論こんなことを、実際に行うことは極めて困難かも知れないが、はね返ったボールがどこに来たかが分るようになっているとすれば、まったく不可能ではないことである。そのときに、もし石のように相当大きくて、かつ重いものが動いているとしたとき、次々と多くのボールを投じてそのはね返ったものを調べると、その石がどの位置にあって、どんな速さで動いているかを知ることができる筈である。しかるに、もし投げつけるボールと同じようなボールが、ある速さで動いているとしたとき、同じような方法でその位置と速さが分るであろうか。このときは、前の石の場合と異なって、もしボールを投げつけたとき、それが当たったとすると、いま調べようとしているボールは、次の瞬間には初めのコースと速さを変えて、何処に行くか分らなくなるから、このような方法では、位置と速さを正確に同時に決めることが、原理上から不可能であることになる。

電子の位置と速さの両方を、同時に正確に決めることが出来ないという事柄も、これとまったく同じである。われわれは人間である以上、光を当てないと観測できないのに、その光、すなわち光子は、電子と同程度の速さとエネルギーを有するのであるから、前の喩(たとえ)の場合のボールにボールをぶつけたと同様の結果となってしまう。しかし、このようなことは、ミクロ的現象を観測しようとする場合に限っている。マクロ的現象の観測では、光子の影響は無視できるから問題とならない。

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