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2018年4月掲載

自然科学と佛教(3) 武藤 義一

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日本にはなぜ自然科学が発達しなかったということに対して、多くの人がいろいろのことを指摘(してき)している。そうして、そのいずれも尤(もっと)もなことばかりであるが、その中に、今後のわれわれをして特に注意を要せしめることがある。それは、日本では科学技術を後世(こうせい)に伝えるときは、単に技術上の問題だけでなく、道徳上の配慮もなされておったということである。例えば、師匠(ししょう)がその秘術を弟子に伝える場合には、たゞ術が優れているだけでは後継者とはせず、その術を充分に善用し得る人格者であることを確かめてから伝えたのであった。従って、もしかゝる人格者が得られなかった際は、自分一代かぎりでその術を絶やしてしまっても惜(お)しいとは思わなかったのである。

このことは、もちろん、時代が封建的ギルド制の社会であったため、その技術を他に公開できぬことから必然的に起こったことであるかも知れぬ。従って、一方的に見ていろいろ結論づけることは当を得ないことでもあろう。それにしても、科学技術というものは、正しい人が正しい用い方をしなければ世に害毒を流すだろうということを、当時の人が認識していたことは明らかに窺(うかが)えるのである。科学上の進歩の結果が戦争目的に用いられて、幾多の悲惨事を招来(しょうらい)している今日、このことをふり返ってみると、いろいろと考えさせられるものがある。

しかしながら、かくのごとき方法を以てした為に、自然科学が進歩発達しなかったのは当然であって、現代では秘伝(ひでん)とか奥義(おくぎ)とか称して、限られた人にしかその成果を知らせぬことは否定されなければならぬ。それと共に、科学上の発明発見を公(おおやけ)にし、これを利用するときには、道徳上の配慮も充分になすべきことを、改めて考えてみるべきではなかろうか。世は将(まさ)に原子力時代となった。原子力を平和目的に用いて光明の世とするか、あるいは破壊目的に用いて世の破滅を招くかの岐路(きろ)に立っている。かゝる時代には、徒らに旧来の道徳律を以てその尺度にしようとしても、何等の役にも立たない。進歩した時代には、発達した教えをもって導くべきである。そして、現代人をしてなお聴(き)くべき深きものを蔵し、従うべき尊きものを有する教説を以てするのでなければ、現代の危機は回避できない。

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前節にて日本の科学が発達しなかった所以(ゆえん)の一をその道徳心に求めたが、これを誤解されてはならない。世には科学に限度あることを指摘して、直ちにこれを無用なりとするものがあるが、その態度は以ての外である。今日の日本の惨状は、科学を誤(あやま)り用いたというよりは、むしろ科学の進歩がおくれ、一般人が科学的教養・科学的精神に欠如していたために齎(もたら)されたものとするのが至当ではなかろうか。かゝる所にはいきおい迷信がはびこり、真理が被(おお)いかくされてしまう。遺憾ながら今日の日本には、かくのごとき事柄があまりにも多く見うけられる。

例えば、病気にかゝったときの態度に、それがよく見られると思う。何々を信心してさえいれば、医者にかからずとも必ず病気は治るのであって、もし治らないとするならば、それは信心の不足であるとする者が如何に多いかはよく知られていることである。しかも、この事に対しては、その真ならざることを主張するのをためらわざるを得ないのが、日本の現状ではなかろうか。

この問題に対する佛教の主張は、近代のある高徳の禅師が身を以て教えられたことで明瞭である。それは有名な話であるからすでに聞き及ばれた方も多いと思うが、その禅師がある病院に入院せられたことがあった。事情を知らない病院の人々の中には、禅僧ともある者が、さては命(いのち)惜(お)しみの者よと、暗に冷笑(れいしょう)した者も少なくなかった。しかしながら、時のたつにつれて、禅師が医師の命にすこしも違うことなく、専心療養につとめられる態度に接し、始めてその常人のよくなし能わぬ境界(きょうかい)に達しておらるゝを知って、深き感動を与えられた由である。かゝる態度こそ、正に釈尊の教えである。

釈尊の傍らに、名医の耆婆(ぎば)がおったことは周知のことであろう。四分(ぶん)律(りつ)(第四)には釈尊の耆婆(ぎば)の手によって外科手術を受けられたことが説かれてあるし、また南伝増一(ぞういち)阿含部(あごんぶ)(一の部諸弟子章)によれば『比丘(ひぐ)等(ら)よ、私弟子の優(う)婆(ば)塞(そく)の中、人々に喜ばれる第一は医師の耆婆(ぎば)である。』と仰せれらたことが説かれてある。

金(こん)光明(こうみょう)最勝(さいしょう)王(おう)経(きょう)(除病品(じょびょうほん)第二四)によると、釈尊の前世譚(ぜんしょうたん)として国内に疫病(えきびょう)が流行したときに、自ら医師となって多くの人を救ったことが説かれている。その中に死相のない病人は助かるものであるとして、その死相とは、五官が倒(さかさ)になり、尊ぶべき人および医師に対して慢心(まんしん)をおこし、親しい友人に怒(いかり)をおこすことであるとしてあるが、われわれの病気に罹(かか)ったときのことを顧(かえりみ)ると、深く感ずるものが多々ある。こゝでわれわれは『医師に対して慢心を起さざる態度』が、佛によって説かれていることを銘記しようではないか。正しい信仰を懐(いだ)いて虚心(きょしん)に医療をうくることは、言うに易く行うは難いことであって、人情としては自然に迷信にふみ迷い易いが、その時にこそ毅然(きぜん)として正信(しょうしん)を保つようにするのが平常の修行であろう。長期の療病生活をこの態度でおし通された人もかなり多いことであろうが、それらの人々こそまことに尊い先(せん)達(だつ)であって、かかる人々の態度には、佛教の信仰にもとづく生活と、科学的なる生活との一致を見出すのである。

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くり返し述べたように、釈尊の教えは実際の生活道であって、単なる思辨的形而上学(けいじじょうがく)ではなかったことを忘れてはならない。それならば、その実践道として示されたことがらは、今日の社会生活にどのような関連を有するのであろうか。特に自然科学者に対し、どのような途を示しておるのであろうか。

釈尊の最初の説法は、ベナレスの鹿野(ろくや)苑(えん)で5人の比丘(びく)に対してなされたものであるが、南伝(なんでん)中部(ちゅうぶ)経典(きょうてん)によると、それは次のように説かれてあり、その中に実践道が示されている。
『出家等よ。世には出家の行者(ぎょうじゃ)が学んではならない二つの極端な道がある。その一つは、もろもろの欲に愛着(あいちゃく)することで、これは卑(いや)しく凡夫(ぼんぷ)のわざである。二つは、徒(いたずら)に自分を責め苛(さいな)む愚かな苦行(くぎょう)であって、これは聖ではなく、益するところがない。

わたしは、この二つの極端を離れて、中道をとったのである。それは心の眼を開き、智を進め、寂静(じゃくじょう)を得させ、正覚(しょうがく)に至らしめ、涅槃(ねはん)に赴(おもむ)かしめるものである。而してこの中道とは、正(しょう)見(けん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正(しょう)命(みょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)の八正道(しょうどう)である。

出家等よ。聴くがよい。ここに苦集滅(くじゅうめつ)道(どう)の四つの真理がある。そうして、苦の滅に至る真理が八正道である。』

これによって根本佛教の実践道は八正道であることが知られるが、この八正道は極めて合理的・普遍的(ふへんてき)であって、永遠の真理である。しかもそれには何等の奇蹟も存せず、現代においても実践道徳として高い価値を有することは当然である。八正道の現代的解釈とその実践こそは、佛教の近代化の一方法を暗示するものではなかろうか。特に私は、これこそ自然科学者に対して、正しい研究生活の在(あ)り方を教えるものであることを強調したい。

正(しょう)見(けん)は、自然や人生に対して佛の教えのごとく正しく見ることであって、佛の教えとしては、三法印(ぽういん)や縁起説に基いて見ることゝされているが、さらに広く解釈して、すべて宇宙の真理にかなった見解をすることを正見として差支えなかろう。これは佛教が正法(しょうほう)の教えである、すなわち宇宙の法則性の究極に存するものを知り、これに従うことによって正しい人生を送るべきことを教えていることを考えれば、直ちに理解されるであろう。

このように考えるとき、自然科学者たる第一条件は、自然を貫いて厳とした法則性の存することを信じ、それを見出し、それに従うことが任務であると自覚することであるから、言葉を換えればそれは『正(しょう)見(けん)』ということになる。
現代の科学は、その基盤として、かゝる宇宙の法則性に対する確信がなければ成立しなかったであろう。

近世科学の父と謂(い)われるガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、十分なる学問的根拠に基いて、地動説を主張したのであった。しかるに、ローマ・カトリック教会はこれを聖書に背(そむ)いた異端であるとし、病弱にして失明に瀕し、齢(よわい)すでに七十に近い老ガリレイをローマの異端審問所に呼び出したのである。ここで、彼はひざまづき、聖書に手を触れつゝ地動説を放棄することを誓ったのであったが、その直後に『けれども、やはり地球は動いているのだ。』とつぶやいたと伝えられている。このことは、あるいは後世の人のつくりごとかも知れない。けれども、ガリレイがあくまで宇宙の真理を確信していたことを端的(たんてき)に現わしたものと言えよう。正見とは、正(まさ)にかくのごとき態度を指すものにほかならない。

八正道については正(しょう)見(けん)を主とし、他の七支は正見を根源として発展した実践道と見るべきであろう。従って、他の七支はいずれも理想実現の方法であると考えられる。その点からも『法に契(かな)った正しい見方』をすることが、すべての実践道の根本である。それのみならず、釈尊の『自己と真理のみを燈明とし、依(よ)り所とせよ』という教えをよく考えるときは、佛教の根本は正見であることを知るであろう。

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