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2018年1月掲載

自然科学と佛教(2) 武藤 義一

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今まで述べた宇宙観から、われわれは、どんなことを感ずるであろうか。この大宇宙から見ると、人間はまことにはかない存在ではないか。しかも科学の進歩してますます宇宙の大きいことを知るほど、自己のはかなさを感ぜざるを得ない。人類が地球上に発生してから今日までの時間でも、宇宙的時間に較べると極めて短いものでしかない。又、この地球にしてからが、宇宙の微々たる1小片にしかすぎないのであるから、人類の大いさなどは零に等しいとしてもよかろう。

この微小な地球の表面近くに僅かな振動が起こるとそれが地震であって、幾多の生命が失われてしまうが、このように人間にとって大事件でも宇宙内の出来事としては問題にならないほど小さいものにすぎない。

従ってこの宇宙にほんの僅かでも変化があると、直ちに人類の破滅にならないと誰が断言できるであろうか。例えば彗星などのような他の天体と、衝突は愚か接近しただけで地球表面に大変化を生じて生物の棲息が不可能になるであろうし、また直接に地球と接近しなくても他の惑星に衝突などが起れば、その影響はたちまち地球に波及して、同様な結果になるであろうことは容易に想像されることである。してみると、宇宙に於ける人間の地位なるものは、極めてはかないものにすぎないと言わざるを得ないことになってくる。

しかしながら、また立場を変えて考えてみると、このような壮大な宇宙観も結局人間がこれを見出したのである。
この意味で自己が全宇宙の中心であるとも考えられる。今から20年くらい前には、銀河系が全宇宙で、その大きさも1万光年位と思われていたが、現在では銀河系自体がその10倍以上も大きいものであることが分ったばかりでなく、更にそれが全宇宙から見れば一部分にしかすぎないことまで分ったのである。しかし、この進歩した宇宙観も、人類のみがこれを理解し玩味し得られるのであることをよく認識すべきであろう。

さらに以前には、太陽系のように惑星を伴った天体は宇宙間にはいくらでもあって、それほど珍しいものとは考えられていなかった。しかるに最近、太陽系の成因に関する研究が進むにつれて、太陽のように惑星を有する星は極く特殊なものであって、その稀有な惑星の一つが地球であることが明らかになってきた。そうなると、われわれの存在はまことに稀な尊いものになってくるのではないか。しかも他の惑星に比して地球のように人間の棲息に適しておるものはなさそうである。従ってこの地球上に生を享けた人類は、宇宙の中で稀にみる恵まれた状態にあると言うべきで、生命の尊さを改めて感ずることになる。

このように科学の進歩発達は、われわれ人類が、全宇宙内では微々たる存在にすぎないことを反省させると同時に、人類の生命のまことに貴重であると共に、かかる壮大な宇宙観も人間の想像力の所産であることからして、これを認識し得る自己の精神性の尊いものであることを教えてくれる。これらのことは佛教の教えにそのまま通ずるものであって、科学が進歩すればするほど佛教が輝きを増すというのは、かかる事情を指すのである。

さて、科学の発達が人間性に対して反省を与えてくれたことを述べたが、次に実生活の面にどんな影響を与えたかを考えてみよう。現代においては多くの科学上の発明発見がひろく実用方面までに利用されており、古人が夢想だにもしなかったほどの便利な世の中になった。今日のわれわれの生活をかえりみると、衣食住のすべてにわたって、その恩恵を蒙らないものがない有様である。たとえば寺院などに就いて考えてみても今日建立されるものは科学の粋を尽くしているものが多いし、寺院内部の設備でもモダンな設計になっている。また僧服を考えても、繊維工業や染料合成工業がその背後にあることを忘れてはならぬ。このように今日の文化は、すべて科学の基盤の上に成立していると言っても過言ではなかろう。

しかし乍ら、この近代科学の著しい発達によって齎された産業革命が幾多の社会問題を惹起し、資本家と労働者の闘争を招来して、いわゆる近代の悲劇を生むに至ったことも、科学の与えた影響の大なるものの一である。更にその後の科学技術の進歩によって、遂に人間が機会によって厭倒されてしまうかも知れないという虞れを生じ、人間が自ら造り出した機会の奴隷になり果てるのではなかろうかとの疑念を多くの人にいだかせた。このことは資本主義の発達した諸国において特にその反省が著しいようで、例えば昔チャップリンの喜劇映画に『モダン・タイムス』というのがあったが、これなどは機械文明に対する痛烈な風刺をあらわにあしたものであった。

これらの反省は心ある人々を深刻に憂慮させたのであったが、一般の人にとってはそれ程でなかったのも、しかたがないことであった。しかるに、1945年に原子爆弾が完成されるに及んで情勢が一変したのであって、人間が自ら発見した原子力は、それによって人類が破滅の危機に見舞われるかも知れないという深刻な不安が各人の胸に萌し始めた。事実もし原子力が破壊的方面にのみ用いられたとしたならば、その可能性が充分にあることは既に立証済のことであるし、特にわれわれ日本人は身を以ってその惨禍を体験させられているのであるから、その感じは尚さら切実である。しかも、原子力の研究は益々急速に進歩しつつある上に、世界の情勢はこれが破壊的方面に使用されるかも知れないという可能性を示しているのであるか尚更である。

このように、科学の進歩発達が人類を幸福にするのでなくて、反って自滅の途を歩ませるかも知れないことが明らかになった。一方に於いて、さしも目醒しく進歩したかに見えた自然科学も、人間そのものは進化させることは出来なかったのではないか。医学の発達によって、多くの病魔から救われるようになったことは確かであるが、しかし本質的に寿命を三倍も四倍にもすることはできず、われわれ人間は依然として『死ぬべきもの』としての運命を負っている。生命維持の方法にしても、太古の時代とまったく同様に食物はそれを消化しうる形で摂取しなければならないし、新陳代謝の老廃物を体外に排泄しなければならないことも昔と同じである。また、一定の時間の睡眠をとらなければならないことも同様であろう。このように、われわれは本質的には進化しなかったものと認むべきではないだろうか。この意味からも、もちろん科学が万能でないことが了解されるのである。

このように科学万能の夢も破れさった。人類に反映と幸福を与えるかに思われた科学が、かえって破壊と不幸を齎すことの多いことが明らかになった。さらに原子力時代となった今日では、恐るべき不安の念がうち消し得ないものとなってきておる。このようなことだけを思いつめると、人は絶望の外はなくなってしまうかも知れない。けれど一歩眼を転じて考えてみると、人類が自らの手によって新たに解放した原子力なるものが生産的方面に活用されたときには、われわれの社会に限りなき福祉を齎らすことは当然であって、このことを考えると、かつてない輝かしい希望と前途を感じてくる。してみると、現在は輝かしい希望の烈しい絶望の両者が併存している状態であって、一歩を誤れば破滅を来たすかも知れないが、正しい方向に踏み出すことができさえずれば最も明るく希望に満ちた社会が実現することになるのである。

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われわれは謙虚な態度で自然科学の功罪を反省すべきことは勿論であるが、然し乍ら徒らに空しき絶望感に捉れていてはならないと思う。何といっても、近代科学の進歩は人間精神の最も貴重な産物の一つであって、人類の誇りであることは否定できないのである。しかし、それが暗い一面を見せているのは何故であろうか。それは物質文明に応じての精神文化の発達が充分でなかった為めではなかろうか。我々人間には深い精神的内面性のあることを見落としていたのではなかろうか。オッペンハイマー博士が内観introspectionによって真実を見出す途を高く評価しておられるのも、正にこのことに気付かれた為と思う。

ユネスコ憲章の『戦争は人間の心から始められる』という有名な文句はこのことを端的に物語っているのであって、科学の発達の持ちだした危機は決して天災ではなく、実に人為的なものである。それは人間自身の努力によって回避できる機器であって、そのためには各人が心の眼を開いて尊い人間性・精神性を自覚し、人生の真実に徹することが必要である。しかし、真実なる人生は現実を通して把握されねばならない。なんとなれば、現実はそのままではもちろん真実ではないけれども、現実を離れてはまた真実はあり得ないのであるから。而してこの現実の姿を自然の面においてわれわれに知らせてくれるものが自然科学であるから、自然科学のみでは人生の真実に徹することはできないけれども、自然科学を離れても真実の人生の姿は見出せないものと思う。ここに佛教者の自然科学に対する関係があるのであって、且つ科学者に佛教を再認識せしめる必要性を痛感する次第である。

経典によれば釈尊は現実の人生に満足できないため人生の真実を求められ、これを自己の精神に内観することによって悟りを開かれた。即ち、自己を中心としてこの世界との関連を考察された結果として、あらゆる存在が実在的であり絶対的であるように見えるのは人間の不完全な意識に基づくものであって、真実の姿は相対的であり機能的なものであると教えられておる。この世界観が、現代の物理学によって得られた物理学的世界像と著しく類似していることは注目すべき事実であって、科学者に対して、人生の姿もその自然科学的世界観と同様な根本原理によって把握し得ることを示すことも、佛教者の務めの一ではなかろうかと思われる。

前世紀までの自然科学的世界観は、この自然を絶対的実在的なものと見做しておるのであって、一般に力学的自然観とも呼ばれている。その根本となるものは物体のいろいろな運動に関して多くの観察がなされ、種々の実験が試みられた結果として帰納されたニュートンの運動の法則である。この法則が成立するためには、絶対運動の場である絶対空間と一様に流れる絶対時間の存在が必要である。そのために、力の働かない場合に運動が直線になるように座標を決めておき、その時に等しい距離を進むに要する時間が常に等しくなるように時計を合わせ、これによって絶対空間の絶対時間を想定したのである。更にその絶対空間を拠り所としている物質は実在的なものであるとするのは当然であって、この世の出来事はすべてこの確定的実在的な物質が運動の法則に従って動くものであるとすることになる。即ち、力学的自然観は自然を大きなメカニズムと考えているもので、絶対的にその実質は不変なるものであり、われわれの眼に映ずるもろもろの変化は、結局物質を構成している分子や原子などが場所や速さを変えるだけの力学的運動にすぎず、結局は見掛け上のものであることになる。

さらに、光に関する現象の説明のためにエーテルが考えられ、エーテルは物体の運動に対して絶対静止であるとされた。このように、絶対的・実在的に時間・空間・物質を扱ったのが19世紀までの自然観である。

しかるに、19世紀末葉に至り、それまでの理論では到底理解できない多くの実験的事実が発見されて、力学的自然観はまったく崩壊するに至った。たとえば電磁気に関する研究が進んだためにエーテルの存在がまことに妙な理解しがたいものになったし、さらに電子が発見されてそれがまったく電磁的なものであることが明らかになった。そうなると電子が物質を構成する究極的な要素であるのに、その本体は実体のない電磁的なものであることはまことに不可解となって、ここに力学的自然観の破綻がみられる。さらにこの電子の運動を論じようとしたときに、時間空間の絶対性と相矛盾する実験的事実があって、まったく行きづまってしまった。これらの事情はポアンカレーも『数理物理学の現実的危機』として認めざるを得なかった科学上の危機であった。

このときにアインシュタインが一石を投じたのであって、アインシュタインとは、ドイツ語で『1個の石』ein steinの意であるが、この一石が大きい波紋を印した。即ち時間と空間の絶対性を否定した相対性原理が提唱され、その正しいことが天文学上の観測によって確かめられたことである。次にブランク、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーなどの学者によって物質の構造が研究され、その結果が量子力学として完成された。その詳細に関しては、次回によく説明しなければならいが、物質の実在性・確定性に関しては従来のような素朴なものでないことを明らかにした。このように外見的には絶対的であり実在的であると思われる自然が、実は相対的なものであり、また機能的なものであることを現在の自然科学が知らせてくれたのである。

佛教においては空間や時間の絶対性を認めたことはなかったし、また物質の実在性を主張したこともなかった。従って思想的にも、他よりも遥かに深いものであったことが知られる。しかし、この深い思想、尊い教えも、人に知らしめなくては現代の科学の示す世界像が釈尊の説法の一部であるような気がしてならないのであって、科学者を対告衆とし、自然を會處とした大乗経典と

見るのは言い過ぎであろうか。この感想に対して、各位の御高評を賜らば幸と思う。

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ヨーロッパの歴史を繙く者は、そこに科学と宗教との長年にわたっての深刻な闘争を見出すであろう。その原因に就いてはいろいろなことが挙げられているが、最も根本的なものは人格神の存在を信仰の基盤とし、神の摂理と奇跡を主張する宗教の教義が、自然の法則性・合理性を確信する自然科学の指導原理と衝突したためと思われる。この自然の法則性は、依然は因果律と考えられていたが、量子力学の発展によって『人間の感覚器官に映ずる事柄の間に存する一義的の因果関係』という狭い意味の因果律は一応否定せられた。このように個々の観測結果に就いては因果関係が一義的とは考えらえれなくなったが、しかし全体に見るときはそこに動かすことのできない必然性・法則性が存在している。これを広い意味での因果律とも考えてよかろう。自然科学者にしてこの自然の法則性」-すなわち広い意味の因果関係-を真面目に考える者にとっては、その因果を左右する神の摂理なるものを認めがたいとするのは蓋し当然であろう。

釈尊は宇宙の創造神を認められなかったし、また神通力のような超自然的なものや奇蹟などを退けられた。そうして、内観によって自己を知り、これを求むることを教えられた。伝によれば釈尊は現実の人生の姿をありのままに眺められるために、それを12の段階に分かちて順観し、さらに逆観されたという。このように科学的・分析的方法によって現実を究められてから、智的直観によってこの宇宙や人生のすべてを成りたたせる法を悟られたのであった。従来の科学では、分析的方面が不当に重視された嫌いがなかったろうか。さらに直観は、自然科学に於いても基本的の重要さを有する。釈尊のとられた途こそ、まさに自然科学者が範とすべきであろう。

ひとりこのことに限らず、佛教への教える実践道徳は自らか科学者の途に通じているのであって、例えば原始仏教の八聖道にしても、中道にしても、その実践が科学者にとって必須であると共に、その実行は現代の科学から見ると、まさに科学的生活態度そのままである。科学者の一部には、一歩研究室を出ると科学的生活をしていないと言われるものがおり、筆者などその良い例の一であってまことに慚愧の至りに耐えないが、今の日本では先ずすべての人に科学的生活態度をすすむべきことを思う。それはすなわち中道の実践になるのであるが、その根底には空観に徹することが要求されるのであって、更にそれがすべて佛に対する信仰に基づくものでなければ真の中道の実践にはなり得ないのである。

(以下次号)
――筆者・東大第二工学部助教授――

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