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2018年7月掲載

自然科学と佛教(3−3) 武藤 義一

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人はあるいは言うかも知れぬ。八正道は佛陀の根本思想に基く実践道であって、その実践法については原子経典にも解説されておるところであるから、それによるべきであって、以上に挙げた科学者の例などは単なる牽強(けんきょう)付会(ふかい)に過ぎぬではないかと。まことに尤もなことである、とも一応は思う。しかしながら、更に佛陀の根本思想は何であるかを考え、八正道は日常実際の生活道として教えられたものであることを思うとき、現代に生きるわれわれとしては、自己の境遇に応じてこれを実践しなければ何の意味もなさないのではなかろうか。例えば、科学者は日常生活において真理の研究に従事しておるのであるから、その研究生活の上に八正道の実践を具現し、逐(ちく)次(じ)に自己の全生活におよぼし、最後に人類全体に及ぼすべきものと思う。釈尊の真意も、正にそこ在るものと信じて疑わない。

さらに人は言うかも知れぬ。八正道は上述のような浅いものではないと。 確かにそうである。あのように説明しながら私の常に恐れたものは、高きものを不当に低くし、深きものを誤って浅くし、あるいは大きなものを故意に小さくしたのではなかったかということである。しかしながら、深きもの、高きもの、大いなるものは、自らその中に入って初めてそれが分るものであり、殊に 釈尊(しゃくそん)の教説は知れば知るほど、入れば入るほど、その深奥なることを知らされるのである。要は先ず一歩踏み込むことであって、そのためにはまず上述程度にその意をとっても差支えないのではなかろうか。むしろ、徒ら難解難入(なんかいなんにゅう) として入口をはばむことは、釈尊(しゃくそん)の真意にもとる所以(ゆえん)とも考えられる。

次にかく言う人もあろう。八正道と言っても極めて常識的のことに過ぎぬではないか、あの位のことならだれでも知っていることばかりであると。然り、正に然りである。しかし、その万人の知ることがらを、一見、きわめて平凡に過ぎぬことがらを、真面目(まじめ)に実行しようとすることこそ釈尊(しゃくそん)の教えである。 唐の時代に道林禅師という高僧がいた。得法(とくほう)の後に奏(そう)望山(ぼうざん)に登り、大きな蓋のような松の木の上に棲(す)んでおられたから、時の人が鳥窠(ちょうか)禅師と尊称されたほどであった。この道林禅師の下に、ある時、有名な白(はく)居(きょ)易(い)が尋ねて来て『佛法の大意は何であるか』と問うた話が伝えられているが、著名な逸話であるから多くの方は知っておられるであろう。

このとき禅師は即座に『諸(もろもろ)の悪はなすことなかれ、衆(しゅう)の善を奉行(ぶぎょう)せよ』と答えられた。白居易は佛法のぎりぎりのことを問うたのに対して、あまりにも常識的な答であったために、重ねて『そんなことなら三歳の小児でも言えるのではないか』と反問した。それに対して『三歳の童子でもこれを言うことができるけれども、八十歳の老翁でも行い難いのである』と答えられたので、白居易も深く感服し、恭禮して去ったのであった。禅師の答は七佛通(つう)誡(かい)の偈(け)として知らるゝ『(「)諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆(しゅ)禅(ぜん)奉行(ぶぎょう)、自浄(じじょう)其(ご)意(い)、是諸佛(ぜしょぶっ)教(きょう)』の前の二句である。この偈にしても、見方によってはまことに簡単であろう、しかし、眞にこれを実行しうる者はまれである。いわんやその窮極(きゅうきょく)位(い)の佛陀にまで到達しえたのは、歴史上では釈尊一人である。しかし、佛教徒たるものはその跡(あと)をしたって、平凡にも見えることを真剣に実行しようとするのである。かくすることによってのみ、現代の危機が救われるのであることを確信してやまない。

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八正道について少し長々と述べすぎたかも知れないが、それが根本佛教の最も主な実践道であるから、特に振りかえってみたのである。すこし発達した佛教では、三道が教えられている。三道とは、見(けん)道(どう)、修道(しゅどう)と無学(むがく)道(どう)であるが、見る道と、修める道と、この上学ぶべき道のない窮極の道を示されたことは、誠に合理的である。道を見分けることなくして、たゞ歩むことだけをするのでは盲目の修道に陥(おちい)ってしまう。この道を見るものが八正道であり、修むる法として、次第に『覚位』に近付くように修道の中心を示されたものが七覚支(かくし)である。

この七覚支とは、法の真偽を撰(えら)び、智力の平衡(へいこう)を保たしめる擇(ちゃく)法(ほう)覚支(かくし)、勇猛精進することを適宜にさせる精進(しょうじん)覚支(かくし)、身心の沈重を避ける喜覚支と軽安覚支、意識を保たしめる念覚支と定覚支(じょうかくし)、心の平安を保たしめる行捨(ぎょうしゃ)覚支(かくし)である。 このように教えられてあるのは、惑を断じて覚に達し、眞の生の実現をうるように修行することが困難であるために、その修道法を懇切に示されたものであろう。この七覚支も、科学者の研究生活の在り方に対比するときは、八正道の場合と同様にその基本的態度を示されていることが納得せられる。

原始佛教からさらに発展して大乗佛教に至ると、知の窮極(きゅうきょく)のもの、行の至れるものが雄大荘厳(そうごん)の筆致(ひっち)を以て経典中の随所に示されている。その内容は私のごとき者のよく述べうるところではないが、実践道について特別の配慮(はいりょ)のはらわれていることが感ぜられる。般若経(はんにゃきょう)の常啼(じょうてい)菩薩(ぼさつ)、華厳経(けごんきょう)の善(ぜん)財(ざい)童子(どうじ)、 涅槃経(ねはんきょう)の雪山(せつぜん)童子(どうじ)などの説話が、すべての読誦(どくじゅ)する者をして感激せしめるのは、法の内容が実践道を通して力強く物語られているために外ならない。

日本佛教と称せられておる宗派も、すべてこの実践道を如実(にょじつ)に示されたものに外ならないと思う。人格の力はその行(ぎょう)に直ちに現れるものであり、人格の窮極位に至らしめんとするのが佛教であることを思うと、これはむしろ当然のことであろう。ただ現今のように社会が高度に発達し、複雑な様相を呈するに至っておるとき、社会人としてのその行(ぎょう)をいかに具現するかということについては、再考の余地があるように思われる。それは社会の基盤から遊離(ゆうり)した実践道では、今日の世界に通用しなくなることを恐れるからである。そして、遺憾ながら今日の佛教には、多少その嫌(きら)いがなきにしもあらずと思われるのは、私の偏見であろうか。しかし、それは佛教の実践道そのものを指すのではなくして、今日の社会生活に、いかにそれを現わすかということを、もっと具体的に示す必要があるのではないかと考えられるからである。

釈尊が法を説かれてから今日に至るまで、時代の変遷(へんせん)にともない、伝道せられた地域の異なるにしたがって、それぞれの土地や時代に応じた実践道が示されたことは、佛教の発達史上明らかなことである。その努力をこゝに再びなすべきことが、今日の佛教者に課せられた大使命である。かゝることは世界的の傾向であって、それは道徳復興運動(いわゆるMRA運動)が、世界各地の人を集めてその大会が開催せられた一事に照らしても明らかであろう。また伝えきくところによると、イギリスのBBC放送局では、何か社会的の事件の発生した直後には、宗教の時間を通じて権威ある僧侶が、基督教徒としてその事件にいかに対処すべきかを明示するとのことである。さらに欧米の宗教人は、自然科学に対する信仰の立場を教える者が多く、また科学者の側でも信仰の問題を重視して、多くの論説が発表されている。これに対して日本の今日の状態は、一層の奮起が要望されるようである。

多くの読者は御承知と思うが、ロンドンにはクリスマス・ハンフレーズ氏を総裁とする佛教教会(The Buddhist Society)があって、佛教の原理を人に知らしめ、かつその原理に基づいた実践を進んで行わしめることを目的として、盛んな活動がなされている。この協会は1924年に創設されたもので、始めのうちは佛教精舎(The Buddhist Lodge)と称していた由である。中道(The Middle Way)と題する雑誌を刊行し、また毎週水曜日の夕方には公開の会合を続けているようである。この協会ではさらに種々のパンフレットも刊行しており、例えば多年の佛教の研究の結果を『佛教の十二原理』なるものに作り、それを佛教宣伝に用いているが、それはハンフレーズ総裁が東京裁判に検事として来日されたとき、始めてわれわれに齎(もたら)されたのであった。

さらに八正道の懇切(こんせつ)な解説のパンフレットも作られており、またビルマが共産主義の脅威(きょうい)にさらされている現況に対し、ビルマの佛教徒に対して共産主義の実体を知らしめ、佛教徒としてこれにいかに対処すべきかを知らせるパンフレットも作られている。後者はブリンクリー先生の好意で私も閲覧(えつらん)することを許されたが、まことに要領よくまとめられたものである。尤もこのパンフレットにせよ、佛教の十二原理にせよ、その内容については大乗佛教徒としては多少もの足りない感が残ることは事実であり、また対共産主義のものは相手がビルマの一般民衆であることを考えると尚更である。

しかし、現在のわれわれとしては、徒らにその内容などについて云々すべきではなく、その現代社会に対して生々と活躍している点を学ばなければならない。現在、大乗相応(そうおう)の地たる日本の佛教関係者が、大乗佛教として世界の佛教徒に対し何ほどのことをなしているのであろう。しかも今日ほど、われわれの活動を必要としている時機はない。そこで大乗佛教者としては、先ず世界の自然科学者に大いに訴えるところがあって然るべきだと信ずる。そのわけは、佛教は科学を包含しうるものであり、近代社会にも充分に受け入れられるだけの思想内容を含み、宇宙的宗教たるの要素をも充分に有しているからである。そして、原子力の脅威(きょうい)下にある人類をすくう道が佛教徒の双肩にあるとの自覚の下に、先ず日本の科学者をうごかして、次いで世界の科学者を納得(なっとく)せしめて、この危機を回避するように努力しなければならない。

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三回にわたって自然科学と佛教とに関することの一端を述べたのであったが、佛教の専門家でもない私がいろいろと申したことには、あるいは誤りがありはしないかと恐れるものであるが、諸賢の御叱正(ごしっせい)が願えれば幸いである。それにもかかわらず、敢て筆をとった所以(ゆえん)は、佛教者には一層の自然科学に対する理解を、自然科学者には佛教に対して従来懐きがちであった誤れる観念の一掃を、このいずれも刻下緊急の必要事であると信じたがためである。 佛教は『これは何であるか』即ちwhatの問題に答えるものでない。佛教の教えるところは『如何にあるか、また如何にあるべきか』すなわちhowの問題に対して答えるものである。Whatの問題に答えるのは哲学と科学の任務であって、それの在り方が佛教によって与えられるとしてもよかろう。佛教と科学の関係は、端的にこの点にありとしてよかろう。従って、前回および前々回に挙げた佛教と科学のいろいろの類似や一致などは部分的なものであるから、これを重視する必要は毫(ごう)もないのであって、むしろほんの些細(ささい)なことと受け取って頂きたい。それなのに、、相当(そうとう)冗漫(じょうまん)にわたるくらいに述べたのは、あのような実例によって佛教者が伝道されたならば、科学者の興味をひき、ひいては入信の動機ともなるようにと願ったからであり、また佛教者の方々も自然科学に対して、幾分の興味と理解を感ぜられるようにと、併せて願ったからである。この拙い一文が何かのよす(・・)が(・)になれば、私の幸いはこれに過ぎるものはない。(完)

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