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職業・金銭・愛情 1-1(『いのち尊し 加藤辨三郎著作集』より)

日本には、ご承知のとおり、昔から天職という立派なことばがあります。 職業は、天から授かったものであるというかんがえかたであります。 このかんがえは、なかなかまじめなかんがえでありまして、そこには、職業にたいする神聖観とでもいうべきものが感じられます。自分の職業を天職と心得る人びとは、おそらく職業をひじょうにだいじに守る人であり、いつもある満足惑と、また感謝の心とをお持ちであろうと想像いたします。ですからわたくしは、職業を天職として孜々営々として働いていらっしゃるかたに深い敬意をささげずにはいられません。

しかしながら、 ややともしますれば、そこにはなにか多少、エリート意識ともうしますか、 あるいはプライド意識ともうしますか、ともかく、自己満足的な匂いが感じられないでもないようであります。自己満足的というのはすこしいいすぎかもしれませんが、すくなくとも善いことをしているという感じがあるようであります。それはけっして悪いわけではありません。人間は誰しも、白分はよいことをしているとおもっているものなのですから、わたくしも、それをとがめる気持ちは毛頭ございません。

けれども、念仏者の職業観は、それとはすこし趣きを異にしているようです。だいたい、 念仏者には、何々観というようなむつかしい観念はあまりないのでありまして、ただ念仏を称えながら、しかも黙々として働いているといった姿が多いのであります。そこには、いわゆるプライドとかエリート意識はすこしもないといっていいでありましょう。ともうしますと、いかにもたよりないようですが、かならずしもそうではありません。じつは、念仏を称えるところに無限の味がひそんでいるのであります。その味は、体験してみるほかなく、10分や15分で簡単に説明できるものではありませんが、今日はただひとつの点についてだけ、もうしておきたいのです。それは、念仏者には、職業もまた因縁によって与えられたものであると受け取られていることです。この因縁ということばが皆さんにとかく嫌われるのでありますが、いくらきらわれましても、それこそ宇宙を貫く真理なのであります。仏教は、因縁を説くところに特徴があるのでありまして、すべてはこの原理から割り出されて行くのであります。そこにはいつを始めとも知り得ない久遠の昔から、今日現在のこの自分にいたるまで 縦にも横にも無限にひろがっている因縁というものが感じられてあるのです。しかも、その中心に自分がいるのであります。たとえてみますれば、ここに大きな網があるといたします。そのまんなかのひとつの結び目それがつまり自分なのであります。この結び目は他の全休によって支えられているのであります。同時にまた、このひとつの結び目が完全であるかないかは網全体のよしあしにひびくのであります。因緑とは、つまり、このようなもちつもたれつの関係をいうのだとおかんがえになってよかろうとおもいます。

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