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はたらく(3)(『いのち尊し 加藤辨三郎著作集』より)

ここで、わたくしは、あの百丈禅師のことばを思い出すのであります。百丈禅師は、中国の唐の時代、いまからおよそ千二百年ばかり前の人で、百丈山に道場をもっていましたがだんだんと弟子がふえて、その数五百にも達するようになったとのことです。こうなると、それまでの禅宗でやっていたように托鉢だけで生きて行くことは困難となって来たにちがいありません。 そこで禅師は、弟子たちとともに教団の自給自足の制度を設けました。僧でありながら、自ら耕作して自活するというわけで、いわば道を求むる者だけでつくられた新しい村です。「 君水を汲めわれ薪をひろわん 」というようなうるわしい集団生活であったろうとおもわれます。理想的な小社会であったのでしょう。この教団の長老、百丈禅師自身も、もちろん、鍬をとり、ほうきをもって毎日休まず作業しました。この禅師は九十五歳まで生きられたのですが、おそらくその晩年のできごとであったとおもわれます。 老いたる師に、これ以上仕事をさせてはならないと 師を慕う弟子たちは、しきりに老師に、もうご自身での労働はやめてほしいとたのみました。しかし、老師は一向にききいれてくれません。そこで弟子たちは、 最後の手段をとりました。つまり、 師の使う鍬、 鎌、 ほうきなど 一切の道具をかくしてしまった。すると、禅師はその日からぷっつりと食事をしなくなってしまいました。心配して、弟子たちが「いかがなさいました」とおたずねしました。そのときの禅師のご返事が、かの有名な「われ一日なさざれば一日食わず」であります。

この百丈禅師のことばと、あの「 働かざるものは食うべからず 」とを比較して昧わってみてください。どちらも、はたらくことが食うことにつながっていることは同じですが、このことばを吐いたふたりの心境においては、まるで裏と表ほどのちがいがあるようですね。さすが、百丈禅師は、禅宗の和尚だけあって、はたらくことも完全な自主性の上に立っておられます。ひとに強いられるのではない。規約があるから止むを得ずはたらくのでもない。深い自覚にもとづいて、自分自身の自由な意志によって、 はたらいているのです。 ここでは自分というものが、つねに労働の主人公なのであります。まことに堂々たる態度といわなければなりません。この態度ではたらくならば、たしかに「日々是好日」となって、行くでありましょう。わたくしは、これを禅のなかのはたらきと呼んでおこうとおもいます。

ところでわたくしは、この禅のなかのはたらきと並んでもひとつ念仏のなかのはたらきがあるとおもうのです。念仏の人もまた、深く人間の自主性を自覚して、その自覚の上に立って、はたらくのです。しかし、その自主性の自覚の内容が、禅の場合と多少角度がちがうようであります。禅に人っておられるかたは、たぶん、自分自身を、他とふりかわることのできない尊厳性をもつものとして自覚していらっしゃるでしょう。念仏の人も、やはり他とふりかわることのできない主休性を惑ずるのではありますが、しかし、その主休性を尊厳なる存在というよりは、業を感ずる本体として自覚する。 業緑のなかの中心、それが自分だと感ずるのであります。だから、職業に従事していても、常に業縁のもよおしによってふるまっている自分というものを感じている。業とか業縁とかいいますと、いかにも暗い感じを与えるかもしれませんが、けっして暗いだけで終わるものではありません。 それは自己の責任を痛惑するからです。 だいたい業と感ずることそれ自体のなかに、すでに責任惑があるのです。 責任感のないところには、業の感じも出てこないのではないか。 自業自得ということばは、すべてを自分の責任として感じている人によってのみいえることばだとおもいます。ひとごとではないのであります。

このように、自分というものを、業のかたまりとして感じとる人が、仏教を聞くと、かならず自然に念仏を称える人になって行くのです。それよりほかに、生きて行く道がないことを自覚するからであります。 そうして、念仏のなかへ入ってみると、こんどは、そこにがらりと変わった境地が感じられてくるのです。それは、はたらくのではない。はたらかしていただいているのだという境地であります。こういう人は、「はたらかざるものは食うべからず」とも、「一日なさざれば 一日食わず」とも言わない。「日々是好日」とさえも言わない、ただ黙々としてはたらき、いつも自分のはたらきの足りないことだけを感ずるのです。それならばそういう人は不幸なのでしょうか。

そうでないことは、その人の姿をみればいっぺんにわかります。 その人たちは、はたらかしていただくことをありがたく感じているのです。いいかえると、しみじみとした幸福を感じているのです。 そうして、けっして自分の利益だけを考えているのではなく、世の中のお役に立ちたいと願っているのであります。おこがましい、いいかたですが、念仏のなかのはたらきこそが、 わたくしに一番ぴたりとくると信じているのであります。

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