トップページ > 図書室 > 加藤辨三郎のページ > 「仏教とわたし」コマ文庫版  在家仏教あれこれ より 

今月より、在家仏教協会初代理事長加藤辨三郎の執筆文を掲載いたします。加藤辨三郎は、協和発酵を始め、多くの会社の創立に参画された当時気鋭の企業人であり、発酵化学に夢を馳せた科学者でもありました。一方、早くから金子大榮先生に師事された熱心な仏教者でもありました。加藤辨三郎が残した数多くの著作の中より、仏教を実生活に活かしたいとする思いを読み直していただきたいと思います。

在家仏教あれこれ(『仏教とわたし』コマ文庫版より)

私は十余年前から、社団法人在家仏教協会の理事長という、しかつめらしい役目を引き受けている。珍らしいとでも思われるのか、いろいろな質問を受ける。

 まず、ザイカ仏教とはなんだとおいでなさる。ザイカでも悪いわけではないが、せめてザイケとくらいは読んでいただきたいといわざるをえない。すると次には、ザイケとはどういう意味かとおっしゃる。出家(しゅっけ)に対することばだといってもわかってもらえない。家庭と職業をもったまま仏教の心のささえとして行こうとする者のことだと註釈すると、はじめてなるほどとうなずいてくださる。

 そこで、こんどは、宗派はどちらの方でと聞かれる。宗派にはこだわらない。どなたでも入会はご自由と答える。ほほう、それはいい。そうでなくちゃいけないとたいがいのかたが賛成してくださる。しかし、こういう即席賛成者で入会してくれる人はめったにいない。

 少し考え深い人は、それでは新興宗教でもないのだねとおっしゃる。まさにそのとおり新興どころか、各宗派をいかしつつ、それも釈尊へかえろうとしているのだから、むしろ復古派といえるのかもしれない。そこまでいうと、こんどはそんなふるくさい仏教が文明開化の今日、何の役に立つかとつめよられる。ふるくさいのは人間の心の方ではないかと反問するのだがさっぱり納得してもらえない。

 しかし、いくら文明開化の世の中と誇ってみても、人間の心は、じっさいに、有史以来ひとつも変化していないのでなかろうか。すると、そんなことはない、二千五百年前に、ラジオはあったか、テレビがあったか、飛行機、ロケット、宇宙船等々どうだとくる。なるほど、そんなものは昔はひとつもなかった。しかし、そんなものができたというだけで、人間の心そのものが一歩でも進歩したといえるだろうか。むさぼり、いかり、そねみ、そういった人間の本性がちょっぴりでも改善されたのだろうか。

 なるほど、昔の人は生活苦にあえぎ、病を忌み、老いをきらい死をおそれたにちがいない。それならば、現代のひとびとは、もう生活苦をしらないのだろうか。病を忌み、老いを嫌い、死をおそれることもなくなったであろうか。私には、そうは思わない。むしろ、それらのことについては昔以上に立ちさわいでいるのではないか。

 釈尊は、こういった人間本来の苦悩、ないしは生活苦のよって来るところを明らかにして、そこからの解脱の道を教えているのである。だから、私たちが、苦悩を感じている限り、仏教は、ふるくさいどころか、つねに新鮮なのだ。私たちが、釈尊にかえろうとするのは、つまり、彼の教えを現代に生かそうとするにほかならない。

 私はまた、こういう質問を、しばしば受ける。それは、仏教が、会社経営の上に、何か役に立つかということである。私は、知らないと答える。すると、そんなことはないはずだ、現に君の会社はうまく行っているじゃないかとおっしゃる。これはじつは、ありがためいわくなのだ。そんなに思って下さるのなら、早く仏教に帰依なさればよさそうなものだが、それはなさらぬ。もっともである。社長が仏教を信じたからといって、会社が栄えるとは限らないからである。

 会社は、よい条件がそろったときに栄え、悪い条件がそろったときにつぶれる。どんな高僧でも寿命がくればなくなられるように、どんな立派な会社でも、命数つきればそれまでのことである。とんでもないことをいうようだが、そうではない。私は、真実を語っているつもりである。

 そんなんなら、仏教を信じたところで何のたしにもならないのではないかとおっしゃるだろう。ところが、それがまたあたっていない。自分の命がいつ終わるかもわからず、自分の会社がいつつぶれるかもしれないからこそ、私は仏教を信ずるのである。私は、そのように考えたとき、はじめてきょう一日の大切さを知るのである。

 私は仏教を信ずるからといって会社の経営を祈祷(きとう)で片づけようとは思わない。経営に必要な知識は、なるべく多く知りたいし、また、無い知恵でもできるだけしぼり出したいと考えている。しかし、私の力はしれたものである。それどころか、つきつめて考えると、自分の力などはまったくない。自分の力だと思うのは、考えが浅いからのこと、じつはみな他から与えられたものにほかならない。私は、このように与えられていることの感謝せずにいられない。その心がなまけ者の私を鞭撻(べんたつ)してくれるのである。

 昔、ある禅僧は、「一日なさざれば一日食わず」といった。おそらく、仏恩報恩の心がそうさせたのであろう。ついでながら、このことばを、かの「働かざる者は食うべからず」と比較していただきたい。いかにもよく似ているようだが、じつはまるで違う。前者には自主性があり、自由がある。後者には、義務があって自由がない。働くことは同じであっても、その心境には、天と地のちがいがある。私は、前者をとりたい。在家仏教の目標のひとつもそこにある。

 仏教を信ずる経営者として私はもうひとこと申しておきたい。それは在家信者は責任を他に転嫁しないということだ。恩を感ずる心では、おのれを立てず、すべてを他からのめぐみと受け取るのであるが、責任を感ずる心では、いっさいの責任は自分にあると受け取る。

理屈をいえば、これは矛盾であろう。しかし、私は理屈よりも、いのちそのもの、生きかたそのものを尊重する。そこでは矛盾が、矛盾とも感じられず、感謝と努力とがおのずから調和して、働けども誇らず、失敗してもぐちをいわない境地が開けてくる。勤労がそのまま生きがいとなる。そのように感ずるとき、人間は最も幸福なのではなからうか。在家仏教は、まさにそこをねらっているのである。

バックナンバー

図書室