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無財の七施

仏教といえば、 葬式を売りものにしていると思っている人が多い。しかし、 釈尊は出家の弟子に、 葬式などするではないぞと戒めている。 日本でも、 奈良の仏教はその教えを守ってきた。 今でもそうだ。 葬式をしないでおれない気持ちは、 むしろ庶民がわにある。 私は、 庶民のこころにやすらぎとおちつきを与える葬式なら、 仏教に限らず、どの宗教でも行なってよいと思う。

一方には、 仏教はむやみにむつかしい哲学を説くものと思っている人も多い。 この人たちは盾の半面を見て、他の半面を見落としている。実践の面をである。

仏教は、なるほど深い道理のうえに立っている。しかし、ただ道理を説いて、ことおわれりとしているのではない。むしろ、その道理実現のために、 日常の実践を説いて余すところがない。

たとえぱ布施だ。これは、 覚への重要な道程である。 これにも、財施、法施、無畏施など むつかしいことも説いているが、 そんなのばかりではない。わかりやすいのに無財の七施というのがある。こうだ。

  1. やさしい目をほどこす。
  2. やさしい顔をほどこす。
  3. やさしいことばをほどこす。
  4. あたたかいこころをほどこす。
  5. 労働をほどこす。
  6. 座席をほどこす。
  7. 宿をほどこす。

これなら今でもりっばに通じよう。 だが、 これを実際に行なう人がどれだけあるだろうか 。「座席をほどこす 」ひとつでもなかなか容易でない。ひとごとではない。私自身にとって、まことに耳の痛い話だ。

それもさることながら、「労働をほどこす」は特に味が深いではないか。 施すというと、 なにやらいやなひびきがする。しかしそれは、私たちのとりかたが悪いのであろう。本来は「させていただきます」というこころにちがいない。布施は、深い感謝のこころから自然に現われる行為だからである。

「労働をさせていただきます」、 それを実行している教団に一灯園がある。もっとも私は、 直接参加したことがないから、賛辞をささげるさえおこがましい。しかし、その精神は貴重である。何よりも強調したいのは、これが覚への道であることだ。覚はよろこびである。 最も深く 、最も浄きよろこびである。 その境地にある人にとっては、労働が遊戯のごとく楽しいにちがいない 。

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