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五つの眼(『仏教とわたし』コマ文庫版より)

私は、若いころ、大の仏教ぎらいであった。 それがなんと今では仏教ならでは夜もあけないしまつである。 かわればかわるものかなと、じぶんながらあきれている。しかし、私は禅僧のように頓悟したのではむろんない。じわじわといつのまにかひきずりこまれたのだ。そのかわり目も、はっきりしない。上司の仰せで、止むなく説教を聞いているうちに、なるほどそうかなと、うなずかされた日のあったことはたしかだが 、その日とてもはっきりしないのである。 けれどもその頃から、ようやく仏教の本を探し求めるようになった。 最初に、私を仏教にひき入れた本は、金子大栄師の『 人 』であった。いわば、これが私の入門の書である。

この本で私は、五眼ということばをはじめて知った。眼に、 肉眼、 天眼、 慧眼、 法眼 、仏眼の五通りあるというのである。この眼の話が、そのまま、私の眼を開いてくれる結果となった。 ほほえましい因縁といわなければなるまい。

肉眼は、いうまでもなく私たちの顔についている眼、その特徴は外ばかり見えて内が見えないことだ。この眼だけにたよると、人間はおそらく、はてしなき欲望、いわれなきしっと、 反省なき驕慢におちいるであろう。

天眼は天人のだそうだ。 人問の肉眼では見えないものの見える眼らしい。 それがどんなに小さかろうが、どんなに遠かろうが、または壁をへだてていようが見える、そういう眼である。 だとすると、 今日ではこれを科学の眼といいかえてもよかろう。 現に今日では、遠くは十億光年の星を見ることもできれば、小さくは分子の構造までも知ることができる。 壁をへだてるなどはいうもおろかテレビのスウィッチを入れさえすれば、世界中のできごとを茶の間で見ることができるのではないか。こうなってくると、 天人の眼もたじたじであろう。 もっとも、天眼はひとの運命まで見えるというからその点ではまだ科学もいばれない。ところが、それほどの天眼にも大きな盲点があるという。 自分自身を見ることができないことだ 。これはおもしろい。 科学もそうなのだ。 科学は科学自身をかえり見ることができない。 先へ先へと出るばかりである。その結果、人間が死滅しようが、 地球が割れようが科学の知ったことではない。さても恐ろしい眼よ。

慧眼、これは読んで字の如く、智慧の眼である。この眼に至ってはじめて、自分自身が見えてくるようだ。現象を見る場合でも、外ばかりでなく、その内側を見るのである。色即是空の智慧がこの眼によって開かれたのであろう 。私たちの生活の智慧もこの眼によって開かれなければなるまい。

次に法眼 。これはどうやら涙にぬれた菩薩の眼のような、 慈悲の眼とでも申しておこうか。

最後に仏眼。 これは上の四眼を残らず具備しているにちがいない。あるお経に「仏の眼は、四大海水の如し」とある。はじめてこれを読んだ時、 私はずいぶん大げさな形容詞だなと思った。しかし、今日では、いみじくも仰せられるものかなと思っている。

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