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職業・金銭・愛情 1-2(『いのち尊し 加藤辨三郎著作集』より)

そういうかんがえかたからどういう思想が生まれるかともうしますと、内に向かっては 自分は無限の因縁によって生かされているということであり、外に向かって、自分もまたすべての因縁にたいして責任をもつものであるという意識であります。前者からは、恩という思想 、ありがたいという感じが生まれるのであり、後者からは、底知れぬ責任感とでももうしますか 、すみませんという気持ちが生まれるのであります。つとめてもなお足りないという感じであります 。念仏は、このありがたいという気持ちと、すみませんという心持ちとを兼ねそなえ、しかもそういうことをみな忘れてしまったような境地なのであります。 ここでは、エリート意識やプライド意識は起ころうにも起こりえません。さりとて、卑しいとも、不幸だともおもわないのであります。どこにいて、なにをしても一種の安住惑を持つのであります 。

天職というかんがえかたにもそれがないとはもうしませんが、どうもすこしニュアンスがちがうようであります。おなじくありがたいともうしましても、とくに白分にはよい職業を与えてもらってありがたいというのと、どのような職業にいてもありがたいというのではすこし感じがちがいませんか。また、遊んでいてはすまん、おおいに働かなければならないというのと働いても働いてもなお足りないとおもっている境地とにもすこしちがいがありはしますまいか 。まあ 、そういうこまかいことはもうしますまい。ともかく、わたくしは、 天職というかんがえもよいとは おもいますが 、それよりむしろ、『歎異抄 』にありますところの「さるべき業縁の催せばいかなるふるまひもすべし 」というあのことばに、鋭さと深みと真実さとを感ずるものであります 。そこでは、職業を業縁によるものと受け取っているのです。

このかんがえからしますれば、職業という字はむしろショクゴウと読む方がピッタリするようです。それはけっして単なる運命論ではありません。運命論には責任同避が感じられますが、業という思想にはつねに責任感があるのです。
わたくしたちは、職業、職業と簡単にいっていて、それはいつでも自由にとりかえられるものかのようにかんがえていますが、けっしてそうではないのであります。そのよって来たるところはいまもうしましたとおり無限の因縁にあるのであります。さればといって固定しているものではありません。時々刻々変化してやまないものであるのです。そこにわたくしたちの意志のくわわる余地がのこされているのです。同時に貨任をもたなければならない理由もあるのです。

念仏者は、むつかしい理屈はしらなくても、そういうことをからだで感じており、さればこそ、ただ念仏しながら黙々と職業にいそしんでいるのであります。

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