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 このコーナーでは、月刊誌「在家佛教」バックナンバーより、講演会のテーマに関する記事などを掲載し、皆様が仏教をより深く理解されるためのツールとして、お役にたちたいと思います。

 今回は、4月8日より東京会場においてスタートします連続講演会「この世とあの世」に関連した記事を取り上げます。まずは、協会の思想的支柱であり、加藤辨三郎が師事されました金子大栄先生の「来世について」を掲載いたします。

「来世について」 金子大栄(大谷大学名誉教授) 在家佛教1965年2月号

Ⅰ.
今日では、来世というものは、あるかないかということだけが論じられております。そしてそれは今にはじまったことではなく、遠い昔から「 来世の有無 」が論ぜられているのであります。「ある」という人は、 三世因果の道理を説き、 あるいはよみがえりした人の物語や、死んだ人と話し合ったりしたということやら、 生まれ変わりの物語やらでもって、来世の存在を証明しようとしておるのであります。「ない」という人にとりましては、そういう証明はなんの役にも立たず、すべては妄想か錯覚であるとせられておるのであります。「ない」という人には、 別になんの証明もいらない。そういうことが経験もされず、 意識もされないからということで十分であるようであります。わたしたちも、その意識を尊重する限りには、「ない」という意見に反対することはできないようであります。

元来、あるかないかをきめて、そうしてその上で実行しようということは、生活の要求からすすんできた知識にとっては、とうぜんのことでもありましょうが、ただそれだけで人間の生活が定まるかは、根本に疑問があるわけであります。人間はみな死ぬものである。 そして死ねばなくなるとは、わたしたちの知っていることであります。しかし人間について知っていることが、かならずしも、じぶんにとって、はっきりしていることではありません。何よりもわかりやすいことは、じぶんも死ぬ人間の一人であるということ、 同時にもっともわかりにくいことは、じぶんも死ぬ人間であることではないでしょうか。 仏教は、 そのように道理としてはきわめてわかりやすいことであるが、実際にじぶんに問うてみると、はなはだ悟りにくいというところにあるようであります。したがって、死ねばなくなることも、一般の人間について感じられることと、じぶんの場合とは、なにか異ったものがあるようであります。

来世の問題は、あるかないかだけでなしに、 もう一つ間題があるはずです。それは来世があることが願わしいことであるか、それとも望ましくないことであるか。

かつて、 死んでもう一ぺん人間世界に生まれることができるとしたならば、そういうことが、望ましいか望ましくないかとアンケートが出されたとときに、その日その日の生活にせわしくて、わずらい悩んでおる人は、もうこれでけっこうである。人間世界に生まれたくないという答がでた。田舎でのんきに生活している人は、もう一度人間世界に生まれることは望ましいと答が出たと聞いております。

さて仏教はそのどちらであるかというと、できうるならば来世がないようにと願っているといってよいでしょう。この点は 世間の人がかんがえていることとは、あるいは反対であるかもしれません。お釈迦さまが弟子たちに教えられ、弟子たちがお釈迦さまの教えを聞いて喜んだその言葉は、仏法の修行により、われわれはわずらいや悩みを離れ、そうして人間業を尽し、ふたたびこの現世の生活を繰り返さない、後の有を受けずという言葉がありますが、後の世の存在を受けることはなくなる、それが涅槃の喜びであると伝えられております。

こういうかんがえの上には、人間の知識だけでは、来世がないことにならないと、予想されているのであります。宗教文学を見ますと、西洋においても、人間は死ねばなんにもなくなるのである、来世があるというようなことは、僧侶が生活のために作り出した説であるといったいいかたをしています。そういういいかたをしながら、しかし、ほんとうに来世がないとするなら、かつてきままな生活をしているわれわれはどうなるのであろうかと、知識のほうでは否定しながら、深い情意のほうでは、その来世をおそれるといったものを描き出しております。また仏教でも、父を殺し母を殺そうとした阿闍世が、 病を得て、 その死後のおそれにおののいた。そこで多くの知識人が阿闍世に、来世はないことをいろいろ説きました。阿闍世はしかし、いかにもそのように思われるが、でもじぶんは来世がこわいといっております。こういう来世のおそれは、そのおそれを感ぜずにはおれないところに、かえって人間の良識があるのではないでありましょうか。そういたしますと、ただ知識でないということで、すっきりするわけにはいかない、もうすこし、われわれの自覚に訴え、そうして物の道理を明らかにし、思惟し、修行することによってのみ、ふたたび後の迷いを受けないことが成り立つのであります。

Ⅱ.
親鸞聖人も、本願を信じ、念仏を申すことは、その念仏により、その信心によって、われわれの愛と憎しみとによって、争うたり、執著したりしておるところの、こういう生活が、 今生を限りとして、たち切られるのである。もはやわれわれが生まれるとか、またどこかへいくとかいうことがなくなってきて、そうしてそこに人間の煩悩、業を尽くして大涅槃の境地に至るのであるといっておられるのであります。 したがって、 親鸞聖人にとり、 浄土とは、 その悟りの境地、大涅槃の世界であり、いわば、われわれがかんがえているような来生を、すっかりたち切ったところ、ただそこにおいてのみ、永遠なるまことの境地を願われておったのであります。いわゆる来生というものを、かえってたち切るところに仏教があったといえるのであります。

しかし、来世があるとすればどうするか、ないとすればどうするかという実際の問題があります。一般にかんがえられているところでは、来世があるならば、すこしは仏法に心がけておかなければならない。ないとすれば、われわれはこの世の幸福、利益さえ求めておればいいというかんがえかたであります。こういうかんがえかたが、常識の思想のようにおもわれてますが、これこそ人間の精神の、いかにだらけているかを意味するものであります。

人間の生活の大事であることをかんがえると、実際の問題は、かえって反対で、来世があるとないとにかかわらず、人間にとっては、この人生ほど大事なものはないことでありましょう。したがって、自覚を求め佛道を聞かなければならないことは、むしろ来世がないことが明らかになればなるほど、いよいよ求めなければならないも のであります。

道元禅師が「 無常迅速生死事大なり 」といわれました。 来世があるというのも、ないというも、そういうことにはかかわりのない、そのあたえられた人間世界は、われわれが現に生活しているように、これでよいのかと、その根本の疑問を起こして、そうしてそこに新たに生活の意義を見出し、またそこに生きる喜びを見出していくところに、いわゆる道念があり、菩提心があるのでありましょう。したがって、来世があるとかないとかいうことが、真実の道を求めることにおいては、かかわりのないものといわなければならないのであります。

こういう意味で、来世は、この世のありかたを、そこにおいて見る場であると見ることができるでありましょう。おいてみる場所というものが、われわれにとって、いかなる場合でも大事なことであります。じぶんというものを、中において見る、姿は鏡において見る、われわれの心は、昔の聖者の教えにおいて見る、人間のこの世の生活を、後の世という光に照らしてみる、こういう「において見る」場所として、「次の世のために」という言葉ももちいられてきたのではないか。来世がないという知識にとらえられている人たちも、「次の世のために」という言葉には、何かいいしれない感じを持つことができる。「次の世のために」というその言葉の底には、われわれの生涯の懺悔があるようであります。それではならないという、そういうことを明らかにする、その言葉が「次の世のために」であります。後生菩提の心も、それよりほかにないのでありましょう。したがって、その根本の道念は、来世があるから仏法を求めるのではなく、仏法を求めるという心の前に開けてくるものが来世であるといってよいのでありましょう。

そういう世界を、わたしたちは、来世と呼んで、その来世が、いまはなき人びとが佛としてそこに拝まれているところであり、そうしてわたしたちも、やがては、またその拝まれるところの身になるのであるとおもいますと、ひるがえって、やがて拝まれる身となるだけの生活をしておるのではあろうかという反省も起るのであります。

Ⅲ.
わたしも老境になり、相次いで男兄弟をつぎつぎと三人もなくしました。ラジオなどで放送しますと、何よりも喜んで聞いてくれるのは、その兄弟で、なかには「お兄さんのきょうの放送は、わしのことを思うて話したのでありましょう」とまでいってくれた弟もありました。それがいまはなき人びとになったとおもいますと、何かかなしい感じがするのです。しかしながら、また今日わたしが、ここでこういうふうなことを話さずにおれないような気持ちにさせたのは、何であるかともうしますと、その逝ける弟たちであるとおもいますと、感じは方向転換して、おまえたちのおかげで、また兄もこういう心をもって生活することができるという喜びを感ずるのであります。

そこで、 来生の浄土とは、われわれの現実の世界に一つのうるおいをあたえ、またかおりをあたえて、 そうしてこの枯れきった生活の上に、 大いなる恵みをあたえるものであるといってよいのでありましょう。 浄土とは純粋感覚の世界であるとおもっております。 人間にとっては、 知識は大事でありましょうが、それよりももっと根本的なものは感情であります。身の感覚であります。その感情が、われわれの全身をうるおしているのですから、 その感情が純粋であるときには、やがてまた感覚も純粋になるのでありましょう。 浄土のことを説いた教えを見ますと、 けっきょくは、 純粋感情の世界であり、そしてそこから知られるものは、 純粋なる感覚であることであります。 しからば、 その純粋なる感覚とは何であるか、さきほどもうしましたように、かおりというようなものでしょうか、 またうるおいというようなものでしょうか、目にとってはさわりなき光であり、耳にとってはたえなる声であり、鼻にとってはよいかおりであり、そうして人間生活にとってほんとうの意味をあたえる世界であります。

こういう意味で、その来世を期することが、 わたしたちに、 大きな生活の根拠をあたえ、 その世界を死の終りと期することによって、そこに生の依るところが成り立っていくようであります。そしてそれによってのみ人間の生活というものが意味を持つことかできる、 人間に生まれてよかった、しあわせであった、ありがたい人生であったと感ずることのできるのも、この来世という永遠に変らないところの場所において、わたしたちがなき人びとをしのび、 まだじぶんもそこへおちつくのであるという、 そういうことがあってのみ、 愛と憎しみとにかかりはてておるところのこの人生にも、大いなる光をあたえ、広くいえば、世界の平和も、この境地をほかにして求めることはできないのではなかろうかとおもうのであります。

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